44歳で家康と再婚、最初の夫は…
さて、朝日姫と言えば、徳川家康の後妻(正室)となったことで知られていますが、朝日姫が家康に嫁す前に既に結婚していた、夫がいたと、時代劇や歴史小説でもよく取り上げられます。朝日姫の前夫とはどのような人物だったのでしょうか。『改正三河後風土記』(江戸時代後期の天保4年=1833年の成立。偽書説もあり、信憑性は低い書物)には朝日姫の前夫は佐治日向守と書かれています。
ちなみに同書は、秀吉は朝日姫と父が異なるとの説を採り「朝日」という名も「朝日村」(愛知県西春日井郡清洲町朝日)で生まれたからと主張しています。同書では佐治日向守は朝日姫と結婚していましたが、徳川家康を何としても上洛させたい(服属させたい)秀吉により、強制的に離婚させられてしまうのです。
秀吉に無理矢理、離縁させられたか
秀吉は「佐治は心厚い者であるので、天下の為ぞと言えば妻(朝日)を返すであろう。返させて徳川を婿とするならば、かの人(家康)も上洛しよう」と言うと、使者(堀尾茂助と生駒甚助)を佐治のもとに遣わし、朝日姫と離縁せよと伝えるのでした。佐治は「この事を拒めば天下人民の苦しみを思わないのと同じ。されども理由もなく、妻を取り返されたとあっては、私は人に顔向けできない」と述べると妻を返します。しかし「故もなく妻を取返され」たことを苦にして「腹切て死」んでしまうのでした。
一方、江戸時代後期の天保14年(1843)に成立した尾張の地誌『尾張志』は朝日姫(同書には法名の南明院と記述)の夫の名を副田与左衛門(あるいは甚兵衛)吉成としています。同書によると、秀吉は副田にこう告げました。「汝、我が妹と離別せよ。妹を徳川に嫁がせて天下を静めようと思う。その代わり、汝には5万石を与えよう」と。秀吉の意向を聞いた副田は「天下の為に妻を出すことは御命令のままに。しかし妻の代わりに禄を得ることは武門の本意にあらず」と返答します。『改正三河後風土記』と違い『尾張志』の場合は、朝日姫の前夫は自刃していません。出家し、隠斎と号し隠棲したとあります。