48歳で死去した秀吉の実の妹
大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)において豊臣秀吉(池松壮亮)の妹・あさひ(朝日姫)は倉沢杏菜さんが演じています。一方、朝日姫の夫・副田甚兵衛役は前原瑞樹さん。あさひが徳川家康との結婚で注目されるのは、秀吉が関白に任官し、名実ともに天下人となってからになります。
それでは朝日姫とはどのような女性だったのでしょうか。「徳川幕府家譜」や「幕府祚胤伝」という徳川幕府が編纂した史料によると、朝日姫は天正18年(1590)1月14日に48歳で京都の聚楽第(1587年に完成した豊臣秀吉が京都に建てた城郭風邸宅)で亡くなったとあります。
つまり、朝日姫が生まれた年は天文12年(1543)ということになります。兄・秀吉が天文6年(1537)の生まれですから、秀吉より6歳下の妹ということになるでしょう。秀吉の弟・秀長は天文9年(1540)の生まれになりますので、朝日姫は秀長より3歳年下ということになります。
秀吉と父親がちがうワケではない?
では朝日姫の父は誰なのか。『太閤素生記』(延宝4年=1676年以前の成立。江戸幕府の旗本・土屋知貞によって纏められた聞書)には、秀吉とその姉・瑞龍院(とも)は木下弥右衛門と大政所(なか)の子であると記されています。しかし弥右衛門が死去したため、大政所は竹阿弥(織田信長の父・信秀の同朋衆)と再嫁。竹阿弥との間に秀長と朝日姫をもうけたと記述されているのです。これまで見てきた『太閤素生記』の記述を基にすれば、秀吉と朝日姫の父は異なることになります。
しかし、その一方で『太閤素生記』には弥右衛門は天文12年(1543)、つまり朝日姫が生まれた年に死んだともあるのです。この記述を基にするならば、朝日姫は弥右衛門の子であり豊臣兄弟(秀吉・秀長)と同じ父のもとに生まれたと推定できるでしょう。
ちなみに京都瑞龍寺(秀吉の姉・瑞龍院の菩提寺)書き出しの「木下家系図」によると、秀吉の父(妙雲院殿栄本)の死んだ年は天文12年(1543)1月2日とあります(渡辺世祐『豊太閤の私的生活』創元社、1939年)。こうした史料の記述を基に考えれば、秀吉の父の死は天文12年であり、秀吉と朝日姫の父は同じとみて良いでしょう。また朝日姫の名については「朝日君」「朝日姫君」「旭」などと後世の史料に記述されていますが、その実名についてははっきりしたことは分かりません。
44歳で家康と再婚、最初の夫は…
さて、朝日姫と言えば、徳川家康の後妻(正室)となったことで知られていますが、朝日姫が家康に嫁す前に既に結婚していた、夫がいたと、時代劇や歴史小説でもよく取り上げられます。朝日姫の前夫とはどのような人物だったのでしょうか。『改正三河後風土記』(江戸時代後期の天保4年=1833年の成立。偽書説もあり、信憑性は低い書物)には朝日姫の前夫は佐治日向守と書かれています。
ちなみに同書は、秀吉は朝日姫と父が異なるとの説を採り「朝日」という名も「朝日村」(愛知県西春日井郡清洲町朝日)で生まれたからと主張しています。同書では佐治日向守は朝日姫と結婚していましたが、徳川家康を何としても上洛させたい(服属させたい)秀吉により、強制的に離婚させられてしまうのです。
秀吉に無理矢理、離縁させられたか
秀吉は「佐治は心厚い者であるので、天下の為ぞと言えば妻(朝日)を返すであろう。返させて徳川を婿とするならば、かの人(家康)も上洛しよう」と言うと、使者(堀尾茂助と生駒甚助)を佐治のもとに遣わし、朝日姫と離縁せよと伝えるのでした。佐治は「この事を拒めば天下人民の苦しみを思わないのと同じ。されども理由もなく、妻を取り返されたとあっては、私は人に顔向けできない」と述べると妻を返します。しかし「故もなく妻を取返され」たことを苦にして「腹切て死」んでしまうのでした。
一方、江戸時代後期の天保14年(1843)に成立した尾張の地誌『尾張志』は朝日姫(同書には法名の南明院と記述)の夫の名を副田与左衛門(あるいは甚兵衛)吉成としています。同書によると、秀吉は副田にこう告げました。「汝、我が妹と離別せよ。妹を徳川に嫁がせて天下を静めようと思う。その代わり、汝には5万石を与えよう」と。秀吉の意向を聞いた副田は「天下の為に妻を出すことは御命令のままに。しかし妻の代わりに禄を得ることは武門の本意にあらず」と返答します。『改正三河後風土記』と違い『尾張志』の場合は、朝日姫の前夫は自刃していません。出家し、隠斎と号し隠棲したとあります。
家康との再婚前に離婚していた?
朝日姫と副田との関係について記したものには『武家事紀』もあります。同書は江戸時代前期の儒学者・軍学者の山鹿素行が著した歴史書であり、寛文13年(1673)に成立しました。その『武家事紀』にも秀吉の妹は副田甚兵衛の妻であるとの記述があります。注目すべきは同書には朝日姫が徳川家康に嫁すため、副田と離縁させられたと書かれていないことです。
同書によると、秀吉によって離縁はさせられたのですが、それは朝日姫が家康に嫁ぐよりももっと前のこと(朝日姫と家康の結婚は天正14年=1586年のことです)。天正10年(1582)、織田信長は本能寺において家臣・明智光秀に討たれますが、その頃までに副田は但馬国二方郡多伊城に在城していました。ところが副田は本能寺の変に伴い、播磨国(現在の兵庫県南西部)に出兵、その隙に一揆が起こり、多伊城を一揆勢に攻め取られてしまうのです。
城を取られた義弟に秀吉が激怒
その後、宮部継潤の活躍により多伊城は奪還されますが、同城を奪われた副田への秀吉の怒りは深かったようです。秀吉の不興を買った副田は、妻・朝日を奪われてしまうのでした。つまり秀吉により離縁させられたと『武家事紀』にはあるのです。
しかし、朝日姫と離縁した後も副田は秀吉に仕えたと同書には記されています。『武家事紀』は朝日姫とその夫・副田の離縁を家康に朝日が嫁ぐことに求めておらず、天正10年(1582)頃のこととするのです。『武家事紀』のこの内容は、一次史料で確認することはできませんが「そうした事態は、十分にありえたように思われる」との見解もあります(黒田基樹『羽柴秀吉とその一族』KADOKAWA)。
『改正三河後風土記』や『尾張志』の成立は江戸時代後期ですが、『武家事紀』の成立は江戸時代前期。成立年代を考えれば、3書のうちで最も信頼できるのは『武家事紀』ということになります。『武家事紀』の記述を本当のこととして受け止めるとしたら、秀吉が家康を従属させるため、朝日と副田を離縁させたという一般的見解は誤りということになります。
「家康が結婚を望んだ」という書状
また秀吉が家康を懐柔し、上洛させるために妹の朝日を嫁がせたという見方がなお強いですが、それに対する反証もあります。秀吉は天正14年(1586)5月24日付の書状において「家康の事、種々縁辺等の儀迄懇望せしめ候」と述べているからです。縁組のことは秀吉側ではなく、家康が「懇望」(熱心に希望した)と言うのです。
天正12年(1584)に秀吉と織田信雄(信長次男)・徳川家康との間で小牧・長久手の戦いが勃発しますが、戦後も家康は秀吉になかなか服従しませんでした。それを受けて秀吉は家康を討伐することを計画していましたが「天正地震」(1585年11月)の影響もあり、それを断念。武力によって家康を屈服させることを諦め、穏和な手段に切り替えます。
既に秀吉に臣従していた織田信雄の説得もあって家康は秀吉に臣従することを決断しますが、家康が提案した条件(そのうちの1つが秀吉の妹・朝日姫を正室に迎える)を秀吉が受け入れたことも臣従に影響したと考えられます。家康は秀吉の妹・朝日姫を正室に迎えることにより、秀吉の義弟となって、豊臣政権下で高い政治的地位を占めることを企図したのでした。
朝日姫の葬儀に家康は来なかった
当時、朝日姫は44歳、家康は45歳でした。朝日姫は駿河府中へと入り、「駿河御前」と呼ばれるようになります。しかし、家康と朝日姫との結婚生活は長くは続かず、天正18年(1590)に朝日姫は京都において病死してしまいます。前年4月頃から病になっていたようです。
朝日姫が死去しても家康が上洛して葬儀を営むことはなかったとのこと。これは結婚生活が短く、しかも別居状態でもあったので、愛情が薄かったからとも推測されています(とはいえ、家康は京都東福寺の塔頭の南明院に霊殿や宝殿などを建立しています)。秀吉と家康によって人生を翻弄された朝日姫は何を思いつつ、この世を去ったのでしょうか。
参考文献
・黒田基樹『羽柴秀吉とその一族』(KADOKAWA)
・黒田基樹『羽柴秀長の生涯』(平凡社)
・柴裕之『秀吉と秀長「豊臣兄弟」の天下一統』(NHK出版)
・福田千鶴『豊臣家の女たち』(岩波書店)
・濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社)