日本に失望、精神状態が悪化する
日本に戻った草間を待っていたのは、スキャンダラスな女性というレッテルだった。男性中心の日本社会や画壇に失望し、神経症になりかけた。
1977(昭和52)年からは、自ら新宿区内の精神科病院の開放病棟に入り、近所にアトリエを構え、行き来しながら作品を発表し続ける。このころ草間を診ていた医師の回顧録には、薬を続けていると創作欲がなくなるために本人は薬を嫌がったとある。さらに医師は「精神病を治さずにおくと天才となっており、治すと凡才となり」と記す。病気を治すことと創作を続けることが矛盾する状況を、草間は自分なりの方法で飼い慣らした。そして、コラージュ、版画、小説、立体とさまざまに形を変えながら意欲的に作品作りに取り組んだ。
50歳を過ぎて日本でも評価が高まる
80年代後半に入ると、日本で草間再評価の波が訪れた。
1987(昭和62)年に北九州市立美術館で初の大規模な回顧展が開かれたのを皮切りに、ニューヨークでも4カ月にわたる回顧展が開催され、1993(平成5)年にはヴェネツィア・ビエンナーレに日本代表作家として出品するなど、大きく飛躍した。草間の絵画や、代表作であるカボチャ形の彫刻はオークションで10億円を超える価格がつくようにもなった。
冒頭の横尾との対談は最初の回顧展の4年後にあたる時期である。
対談のなかで横尾は芸術家のあり方について、「ぼくは生き方しかないと思うわけ」と語る。死んだあとに作品が残ろうが燃えようがそんなことは関係ない、大切なのはいまこの瞬間だ、と。
「アーティストは死後の評価が大事」
対する草間は、死んだあとにこそ作家の価値が決まる、そこからが勝負だと言う。死は怖くないが、死後に作品が「人格を持ってひとり歩きする」ことが「怖い」と。自伝には、死後の計画書を書いていると明かし、「死後の風雪に耐える仕事をしていきたいということが、心の中にいっぱい広がると、眠れぬ夜さえある」と書いている。美術の「歴史」のなかに自分の仕事を置くことが草間の最後の、そして永遠の存在証明になるという強い意志の表明である。