37年前、アーティスト対談で衝突
「あまりにも世界が違って、対談していくのが苦しいから、ここで降りたいと思いますけど」
1991年1月、『季刊みづゑ』誌上で横尾忠則と対談した草間彌生は、そう口走った。
その少し前にも、草間はこう話している。
「横尾さんと対談できるかどうかということに危惧を感じているんです。二人の生き方が正反対だから。あなたの世界は私の世界とは全然別の世界だから、この雰囲気の中で非常に疎外感というか、話しあえないという感じがするんです」
このとき、草間彌生61歳、横尾忠則54歳。
年齢は7歳違えど、ともに1960年代ニューヨークのアート・シーンに親しみ、生と死、幻視、鏡、動物、自然、身体などへの関心も重なる。対談相手として申し分のない二人だ。
ところが草間は、司会(当時の『みづゑ』編集長)や横尾が共通点に話を向けても、あくまで自分はオリジナルであると主張する。横尾のことを「非常にジャーナリスティックで、私とは世界が全然違って、ついていかれない」とまで言うのだ。
60年代に自分が切り開いた表現
そのうち草間は、1960年代の自分について矢継ぎ早に語り始める。
ニューヨークではアンディ・ウォーホルをはじめ多くのアーティストが自分の真似をしたこと、「ジーザス・クライスト・スーパースター」などのミュージカルにも影響を与えたこと、ファッションの会社を作り、自分がデザインしたドレスを「全米4000軒」のデパートやブティックで売ったこと。「当時の私はありとあらゆる新しいメディアの先駆者だったんです。だから、1960年代のスターになれたわけです」。
「日本画壇のレベルは低いから」
横尾から「草間さんのほうが、はるかにジャーナリスティックじゃないですか」と言われると、草間は即座に答える。
「だって、それは本当ですもの。歴史です」
横尾は食い下がる。「本当だとしても、そちらのほうがはるかに話の内容がジャーナリズムにこだわっていますよ」。
草間は言う。
「それは日本では誰も認めていないからですよ。レヴェルが低いから。画壇の」
「歴史」とは何か。「画壇のレヴェルが低い」とは何のことか。
なぜ草間は、自身の功績をそんなにも主張しなければならなかったのか。
横尾忠則もニューヨークで成功した
横尾は、若くして日本を代表するグラフィックデザイナーとなり、1972(昭和47)年には35歳でニューヨーク近代美術館で展覧会を開いている。その横尾を前にした草間の言葉には、美術界のなかで、自分の仕事を自分で証明してこなければならなかった強い思いがうかがえる。それは、対談を途中で降りたいと思うほど大きなプレッシャーだった。もちろん自己演出の側面もあるだろう。だがそれ以上に、草間にとって芸術は、自分の存在をかけた、切実なものだった。
1929(昭和4)年、長野県松本市の裕福な種苗業の家に生まれた草間は、少女時代から幻覚や幻聴を感じ、それらを絵にすることで自らを支えた。16歳で展覧会に入選するなど、早くから才能を認められ、京都市立美術工芸学校に進学。日本画を学んだものの因習的な画壇には馴染めなかった。その後、2度の美術展入選を経て、個展を開く。
20代で渡米、ヌードのパフォーマンスを
主治医らの勧めもあり海外脱出を目指した草間は、1957(昭和32)年にシアトルでの個展が決まって渡米し、翌年ニューヨークに移住。絵画「無限の網(Infinity Net)」で注目され、ソフト・スカルプチャー、インスタレーション、みずからヌードになっての“ハプニング”(パフォーマンス)など、次々と新しい表現に挑んだ。自作自演の映画『草間の自己消滅』も海外で多くの賞を受賞。人は草間を「前衛の女王」と呼んだ。
しかし草間自身は『無限の網 草間彌生自伝』のなかで「毎日が緊張と不安と興奮と闘争の連続であった」と書く。世界中から一旗揚げようとやってくるアーティストたちがうごめく街で、斬新なアイディアを次々に生み出し、アピールし続ける重圧は並大抵ではない。
日本ではハレンチ女扱いされた
その一方で、日本では草間を「ハレンチ・アーティスト」「国辱もの」などと報道し、母親からは「隣近所に顔向けできない」「のどの病気で死にそうになった時、あのまま死んでいてくれたら……」という手紙が届くなど、風当たりも強かった。だが、生きることは人間の根源的な欲求であり、草間にとって制作は生きることと不可分だった。止めるわけにはいかないのだ。
1972(昭和47)年末にプラトニックな関係だったパートナーのジョゼフ・コーネル(箱型の作品で有名なアーティスト)が亡くなり、しだいにハプニング・ブームも下火になったころ、草間は健康状態の著しい悪化をおぼえ、翌年帰国することになる。足掛け16年のニューヨーク生活だった。
日本に失望、精神状態が悪化する
日本に戻った草間を待っていたのは、スキャンダラスな女性というレッテルだった。男性中心の日本社会や画壇に失望し、神経症になりかけた。
1977(昭和52)年からは、自ら新宿区内の精神科病院の開放病棟に入り、近所にアトリエを構え、行き来しながら作品を発表し続ける。このころ草間を診ていた医師の回顧録には、薬を続けていると創作欲がなくなるために本人は薬を嫌がったとある。さらに医師は「精神病を治さずにおくと天才となっており、治すと凡才となり」と記す。病気を治すことと創作を続けることが矛盾する状況を、草間は自分なりの方法で飼い慣らした。そして、コラージュ、版画、小説、立体とさまざまに形を変えながら意欲的に作品作りに取り組んだ。
50歳を過ぎて日本でも評価が高まる
80年代後半に入ると、日本で草間再評価の波が訪れた。
1987(昭和62)年に北九州市立美術館で初の大規模な回顧展が開かれたのを皮切りに、ニューヨークでも4カ月にわたる回顧展が開催され、1993(平成5)年にはヴェネツィア・ビエンナーレに日本代表作家として出品するなど、大きく飛躍した。草間の絵画や、代表作であるカボチャ形の彫刻はオークションで10億円を超える価格がつくようにもなった。
冒頭の横尾との対談は最初の回顧展の4年後にあたる時期である。
対談のなかで横尾は芸術家のあり方について、「ぼくは生き方しかないと思うわけ」と語る。死んだあとに作品が残ろうが燃えようがそんなことは関係ない、大切なのはいまこの瞬間だ、と。
「アーティストは死後の評価が大事」
対する草間は、死んだあとにこそ作家の価値が決まる、そこからが勝負だと言う。死は怖くないが、死後に作品が「人格を持ってひとり歩きする」ことが「怖い」と。自伝には、死後の計画書を書いていると明かし、「死後の風雪に耐える仕事をしていきたいということが、心の中にいっぱい広がると、眠れぬ夜さえある」と書いている。美術の「歴史」のなかに自分の仕事を置くことが草間の最後の、そして永遠の存在証明になるという強い意志の表明である。
草間にしかできなかった表現とは
そんな草間が実際に亡くなった今、美術史のなかで彼女がどう位置付けられるかはこれから明らかになっていくのだろうが、ここではむしろ、逆境のなかで膨大な仕事を残してきた草間の制作の原動力に目を向けたい。
それは「恐怖を凝視する」ということだ。
幻覚や幻聴が現れればそれを絵にし、強すぎる自我は「自己消滅」というテーマに向かわせる。ファルス(男性器)を恐れれば大量のファルスのぬいぐるみを作り、自殺したくなれば「自殺した私」を制作する。恐怖から逃げるのではなく、恐怖そのものを作品にする。これは容易なことではない。
人は、定められた条件のなかで生まれ、生まれた場所も、過去も、性格も、身体も、簡単には変えられないが、それとどう向き合うのか。
草間の仕事は、その問いを私たちに突きつけているのではないだろうか。
・参考文献
草間彌生『無限の網 草間彌生自伝』新潮社、2012年
草間彌生、建畠晢ほか著、和田侑子、小林豊子 訳『草間彌生わたしの芸術』グラフィック社、2019年
建畠晢監修『草間彌生 芸術の女王(別冊太陽 日本のこころ 225)』平凡社、2015年
楠瀬佳子、三木草子 編『「わたし」を生きる女たち 伝記で読むその生涯』世界思想社、2004年
西丸四方『彷徨記 狂気を担って』批評社、1991年
草間彌生、横尾忠則「ヴィジョンの降臨」『季刊みづゑ』(958)美術出版社、1991年
横尾忠則『見えるものと観えないもの』ちくま文庫、1997年
「日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ」