横尾忠則もニューヨークで成功した
横尾は、若くして日本を代表するグラフィックデザイナーとなり、1972(昭和47)年には35歳でニューヨーク近代美術館で展覧会を開いている。その横尾を前にした草間の言葉には、美術界のなかで、自分の仕事を自分で証明してこなければならなかった強い思いがうかがえる。それは、対談を途中で降りたいと思うほど大きなプレッシャーだった。もちろん自己演出の側面もあるだろう。だがそれ以上に、草間にとって芸術は、自分の存在をかけた、切実なものだった。
1929(昭和4)年、長野県松本市の裕福な種苗業の家に生まれた草間は、少女時代から幻覚や幻聴を感じ、それらを絵にすることで自らを支えた。16歳で展覧会に入選するなど、早くから才能を認められ、京都市立美術工芸学校に進学。日本画を学んだものの因習的な画壇には馴染めなかった。その後、2度の美術展入選を経て、個展を開く。
20代で渡米、ヌードのパフォーマンスを
主治医らの勧めもあり海外脱出を目指した草間は、1957(昭和32)年にシアトルでの個展が決まって渡米し、翌年ニューヨークに移住。絵画「無限の網(Infinity Net)」で注目され、ソフト・スカルプチャー、インスタレーション、みずからヌードになっての“ハプニング”(パフォーマンス)など、次々と新しい表現に挑んだ。自作自演の映画『草間の自己消滅』も海外で多くの賞を受賞。人は草間を「前衛の女王」と呼んだ。
しかし草間自身は『無限の網 草間彌生自伝』のなかで「毎日が緊張と不安と興奮と闘争の連続であった」と書く。世界中から一旗揚げようとやってくるアーティストたちがうごめく街で、斬新なアイディアを次々に生み出し、アピールし続ける重圧は並大抵ではない。
日本ではハレンチ女扱いされた
その一方で、日本では草間を「ハレンチ・アーティスト」「国辱もの」などと報道し、母親からは「隣近所に顔向けできない」「のどの病気で死にそうになった時、あのまま死んでいてくれたら……」という手紙が届くなど、風当たりも強かった。だが、生きることは人間の根源的な欲求であり、草間にとって制作は生きることと不可分だった。止めるわけにはいかないのだ。
1972(昭和47)年末にプラトニックな関係だったパートナーのジョゼフ・コーネル(箱型の作品で有名なアーティスト)が亡くなり、しだいにハプニング・ブームも下火になったころ、草間は健康状態の著しい悪化をおぼえ、翌年帰国することになる。足掛け16年のニューヨーク生活だった。

