「私の父親は一種の奇人だった」

妓楼の格子の隙間から、提灯の明かりに照らされた遊女が怪しく微笑みかけてくる。男たちがそれを横目に狭い路地を行ったり来たり。俊次の姿もそこにある。興奮で目を血走らせている他の男たちとは違って、俊次は落ち着き払った余裕の表情で通りをそぞろ歩く。いかにも場慣れした感じ。彼にとってこの歓楽街は、家の近所を散歩するようなもの。放蕩者ほうとうものとして街でも有名な男だった。

「私の父親と言うのは、バルザックかドストエフスキーの小説の中にしか出て来ないような、一種の奇人、乃至ないしは狂人だったと思う」

千代の自叙伝『生きて行く私』にはこのように書かれている。かなりエキセントリックな性格だったようで、同居する家族の心が休まることはない。

俊次は安政2年(1855)の生まれ。千代が誕生した頃すでに40歳を過ぎていたが、生まれてから一度も仕事に就いたことがない。芸者遊びや賭場通い、自分のやりたいことだけをやって生きている。彼が生まれ育った玖珂郡下しも久原村(現在の岩国市周東町)は、岩国城下から15キロほど離れた山間の地だが、西国街道が通るにぎやかな宿場町で富裕な商家が多い。代々造り酒屋を営む実家は、そのなかでも指折りの資産家だった。

次男坊の俊次には後継がいなかった分家筋を相続させ、川西にある商家の建物を買い与えて住まわせた。親からすれば、そこで何らかの商売を始めて自立することを願っていたようだった。しかし、いつまで経っても仕事を持たず、分家したときに貰もらった財産をすべて使い果たしてしまう。

宇野千代、54歳のとき
写真=共同通信社
作家の宇野千代、54歳のとき、1952(昭和27)年2月12日撮影

父の裕福な実家から生活費をもらう

それでも実家は見捨てずに支援をつづけた。月に2度、生活費が届けられる。女房子供もいる中年男のニート。普通なら肩身が狭いところだが、俊次の感覚は普通ではない。放蕩三昧ざんまいの日々はつづく。また、家族には絶対服従を求める暴君ぼうくんで、自分のことを棚に上げて妻や子供たちには厳しく自制を求める。家族が楽しそうにしたり、笑ったりするのが大嫌いで許せない。俊次の在宅中、家の中は通夜のよう。家族は俊次の顔色をうかがい、息をひそめて押し黙っている。気疲れする。外で遊び歩いてくれたほうがむしろありがたい。

また、子供のシツケにはとくに厳しい。たとえば雪の降った朝のこと、俊次が珍しく早起きして、学校に行こうとしていた千代を呼び止めた。そして、「今日は裸足はだしで行け。草履をはいて行くと草履は濡れて腐るかもしれん。だが、裸で歩いても足は腐らん」