明治30年、造り酒屋の家系に生まれた

明治30年(1897)11月28日、千代は山口県玖珂くが郡横山村(現在の住所は岩国市川西町2丁目)の川西に住む宇野俊次しゅんじの長女として生まれた。川西の地名は、錦川の西岸にあることが由来とされる。城下町・岩国を形成する主要地域のひとつだ。

岩国初代藩主となった吉川広家きっかわひろいえは、屏風のように連なる急峻な横山の尾根に岩国城を築いた。山を囲むように蛇行して流れる錦川を天然の外堀に利用し、その南麓に御館と呼ばれた藩主の居館や重臣の屋敷を配置した。ふだんは山麓の屋敷で暮らし、敵が攻めてくれば山頂の城砦じょうさいに移って籠城できるようになっている。天下の趨勢が定まった関ヶ原合戦後に、戦国時代の山城と変わらぬ構造だった。

岩国城の復興天守
岩国城の復興天守、2005年3月撮影(写真=user:Mkill/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

本丸がある横山の頂いただきに登れば、城下町が一望できる。山々に囲まれ、蛇行する錦川の両岸にへばりつくようにしてある街並みは、手の中にすっぽりと収まりそうなほどに狭く小さい。それが、千代が愛してやまない“故郷・岩国”の領域だ。

川西と城下町中心部の錦見を結ぶ臥龍橋がりょうばしが完成したのは、維新後の明治21年(1888)のこと。この頃になると道路が整備され馬車による輸送が普及するようになるのだが、アーチ構造の錦帯橋だと車両の通行が不可能。そこで臥龍橋を建設することになり、完成後は両岸を結ぶ唯一の馬車ルートとして重宝されるようになった。

千代の父が通った城下町の遊郭

臥龍橋の錦見側の袂たもとから大明小路に向かって延びる道も拡張整備され、臥龍橋通りと呼ばれるようになった。千代が生まれた頃は商店や銀行などが建ちならぶ岩国の中心地としてにぎわっていた。

千代の父・宇野俊次は、毎晩のように臥龍橋を渡って対岸に通ったという。錦見側に渡ると西福寺を右手に眺めながら、大明小路の方角に向かって臥龍橋通りを北上する。西福寺の築地塀の途切れたところで、怪しい雰囲気を漂わせた豆腐屋や町の路地が現れる。

ここは江戸時代からつづく遊郭で、狭い道沿いには妓楼や引手茶屋が隙間なく建ちならんでいる。また、豆腐屋町のひとつ隣に並行してある鍛冶屋町の路地にも料理屋や芸者置屋があり、一角は歓楽街になっていた。千代の代表作である『おはん』の物語も、この界隈かいわいが舞台として描かれている。

30歳ごろの宇野千代
30歳ごろの宇野千代、『女人藝術』1928年11月号(写真=女人藝術社/Public domain/Wikimedia Commons)