※本稿は、青山誠『宇野千代 恋を糧に生きた、その幸福な人生』(角川文庫)の一部を再編集したものです。
五連アーチの錦帯橋の近くが故郷
山口県岩国の名物といえば錦帯橋。五連アーチの木造橋が、橋桁を洗う急流や後背に聳える山々と調和して“奇跡”の美景を楽しませてくれる。世界唯一の珍しい橋の構造は、錦川の急流に耐えられるように工夫されたもの。だが、この形になるまで、橋はたびたび壊れて押し流されてきた。失敗から学んで、より強固な橋に架け替えられる。試行錯誤をつづけてこの景観はつくりあげられた。
岩国の人々にとってこの美しい眺めは、奇跡なんかじゃない。先人たちが積み重ねてきた努力の結晶。それだけになおさら誇らしい。岩国出身者がお国自慢をすれば、必ず錦帯橋のことが語られる。
宇野千代もそうだった。錦帯橋からそう遠くない場所に彼女の生家がある。19歳になる頃までここで暮らし、晩年期に修復して里帰りの都度この家に泊まったという。
現在は記念館として一般公開されている。縁側に面した居間兼仏間には文机があり、愛用の鉛筆や湯吞み、綴られた書きかけの手紙が置かれている。手紙の日付は平成4年(1992)6月5日。彼女が亡くなる4年前、満94歳のときに書かれたものだ。
愛憎入り交じる故郷への思い
その一節に、「わが故郷岩国の錦帯橋は私にとりまして、日本中に自慢しても自慢しきれないほどの大切な橋でございます」とある。病気が治癒して久しぶりの帰郷だったという。大好きな錦帯橋を自分の足で歩いて渡り、体調が回復したことを確かめるつもりだと、嬉しげに綴られている。
千代はまた、誰かに「お国はどちらですか?」と訊きかれたときには必ず、「岩国です、あの錦帯橋の」と、返答していた。錦帯橋と故郷への深い愛着が感じられる。好きになると深く心を奪われて、我を忘れて没頭してしまうのが彼女の悪い癖。“岩国愛”にもまた、それが垣間見られる。
しかし、故郷への愛着を口にするようになったのは、老境に入るような年齢になってからのことだった。若い頃は故郷について自分から積極的に語ることはない。むしろ、避けていた感じさえある。愛と憎しみは表裏一体。恋愛とは、愛と憎悪の感情が激しくぶつかりあう人間ドラマだ。故郷に対する彼女の思いもまた恋愛に似て、愛着だけではなさそう。複雑な感情が渦巻いていたようだ。
明治30年、造り酒屋の家系に生まれた
明治30年(1897)11月28日、千代は山口県玖珂郡横山村(現在の住所は岩国市川西町2丁目)の川西に住む宇野俊次の長女として生まれた。川西の地名は、錦川の西岸にあることが由来とされる。城下町・岩国を形成する主要地域のひとつだ。
岩国初代藩主となった吉川広家は、屏風のように連なる急峻な横山の尾根に岩国城を築いた。山を囲むように蛇行して流れる錦川を天然の外堀に利用し、その南麓に御館と呼ばれた藩主の居館や重臣の屋敷を配置した。ふだんは山麓の屋敷で暮らし、敵が攻めてくれば山頂の城砦に移って籠城できるようになっている。天下の趨勢が定まった関ヶ原合戦後に、戦国時代の山城と変わらぬ構造だった。
本丸がある横山の頂に登れば、城下町が一望できる。山々に囲まれ、蛇行する錦川の両岸にへばりつくようにしてある街並みは、手の中にすっぽりと収まりそうなほどに狭く小さい。それが、千代が愛してやまない“故郷・岩国”の領域だ。
川西と城下町中心部の錦見を結ぶ臥龍橋が完成したのは、維新後の明治21年(1888)のこと。この頃になると道路が整備され馬車による輸送が普及するようになるのだが、アーチ構造の錦帯橋だと車両の通行が不可能。そこで臥龍橋を建設することになり、完成後は両岸を結ぶ唯一の馬車ルートとして重宝されるようになった。
千代の父が通った城下町の遊郭
臥龍橋の錦見側の袂から大明小路に向かって延びる道も拡張整備され、臥龍橋通りと呼ばれるようになった。千代が生まれた頃は商店や銀行などが建ちならぶ岩国の中心地としてにぎわっていた。
千代の父・宇野俊次は、毎晩のように臥龍橋を渡って対岸に通ったという。錦見側に渡ると西福寺を右手に眺めながら、大明小路の方角に向かって臥龍橋通りを北上する。西福寺の築地塀の途切れたところで、怪しい雰囲気を漂わせた豆腐屋や町の路地が現れる。
ここは江戸時代からつづく遊郭で、狭い道沿いには妓楼や引手茶屋が隙間なく建ちならんでいる。また、豆腐屋町のひとつ隣に並行してある鍛冶屋町の路地にも料理屋や芸者置屋があり、一角は歓楽街になっていた。千代の代表作である『おはん』の物語も、この界隈が舞台として描かれている。
「私の父親は一種の奇人だった」
妓楼の格子の隙間から、提灯の明かりに照らされた遊女が怪しく微笑みかけてくる。男たちがそれを横目に狭い路地を行ったり来たり。俊次の姿もそこにある。興奮で目を血走らせている他の男たちとは違って、俊次は落ち着き払った余裕の表情で通りをそぞろ歩く。いかにも場慣れした感じ。彼にとってこの歓楽街は、家の近所を散歩するようなもの。放蕩者として街でも有名な男だった。
「私の父親と言うのは、バルザックかドストエフスキーの小説の中にしか出て来ないような、一種の奇人、乃至は狂人だったと思う」
千代の自叙伝『生きて行く私』にはこのように書かれている。かなりエキセントリックな性格だったようで、同居する家族の心が休まることはない。
俊次は安政2年(1855)の生まれ。千代が誕生した頃すでに40歳を過ぎていたが、生まれてから一度も仕事に就いたことがない。芸者遊びや賭場通い、自分のやりたいことだけをやって生きている。彼が生まれ育った玖珂郡下久原村(現在の岩国市周東町)は、岩国城下から15キロほど離れた山間の地だが、西国街道が通るにぎやかな宿場町で富裕な商家が多い。代々造り酒屋を営む実家は、そのなかでも指折りの資産家だった。
次男坊の俊次には後継がいなかった分家筋を相続させ、川西にある商家の建物を買い与えて住まわせた。親からすれば、そこで何らかの商売を始めて自立することを願っていたようだった。しかし、いつまで経っても仕事を持たず、分家したときに貰った財産をすべて使い果たしてしまう。
父の裕福な実家から生活費をもらう
それでも実家は見捨てずに支援をつづけた。月に2度、生活費が届けられる。女房子供もいる中年男のニート。普通なら肩身が狭いところだが、俊次の感覚は普通ではない。放蕩三昧の日々はつづく。また、家族には絶対服従を求める暴君で、自分のことを棚に上げて妻や子供たちには厳しく自制を求める。家族が楽しそうにしたり、笑ったりするのが大嫌いで許せない。俊次の在宅中、家の中は通夜のよう。家族は俊次の顔色をうかがい、息をひそめて押し黙っている。気疲れする。外で遊び歩いてくれたほうがむしろありがたい。
また、子供のシツケにはとくに厳しい。たとえば雪の降った朝のこと、俊次が珍しく早起きして、学校に行こうとしていた千代を呼び止めた。そして、「今日は裸足で行け。草履をはいて行くと草履は濡れて腐るかもしれん。だが、裸で歩いても足は腐らん」
「雪の中を歩いて登校しろ」と命令
信じられないことを言ってくる。小学校は臥龍橋を渡った錦見の東端にあり、家からは1キロほど離れている。雪の降り積もるなかこの距離を歩くのは、草履を履いても辛い。しかし、暴君の命令は絶対、どんな無茶ぶりにも黙って従うしかない。雪を踏みつづける素足は、冷たさを通り越して激痛に苛まれる。それを見た近所の人々が「千代さんかわいそうに」と同情する。俊次の困った気性は近所の人々もよく知っている。
しかし、これでも俊次は娘を愛しているようだった。千代の学業成績は抜群で、通信簿はオール甲(当時は甲・乙・丙・丁の4段評定)。毎年春には旧岩国藩主の吉川家から小学校の成績優秀者に褒美が与えられるのだが、その表彰の常連でもあったという。
明治の世になっても、この城下町では元藩主・吉川家の威光は絶大だった。褒美の品を目にして大喜び、千代の手を引いて臥龍橋を渡る。
「今日はこいつが、学校に呼ばれて殿様から褒められての」
そう言って、自分が贔屓にしている料亭や芸者置屋などを自慢してまわる。歓楽街で小学生をつれまわすのは教育上どうかと思うが、娘を愛するがゆえ抑えきれない衝動だった。
優秀な娘は俊次にとっていちばんの自慢。もっと磨きをかけて立派に育てたいと、教育にも熱が入る。熱心すぎるあまり、つい厳しくなってしまう。普通の人々からすればそれはもう虐待にしか見えない所業も多々あり、だが、彼にとっては娘への愛情表現。“愛の鞭”だった。
暴君だった父への消せぬ思い
厳しすぎる教育が心に傷やトラウマとなり、親を生涯恨みつづける。と、そういった実例は多くある……しかし、
「もう一回子供時代を過ごさねばならないとしたら、また同じ父に育てられたいと思っています」
87歳の時、昭和59年(1984)6月9日に催された宇野千代講演会でこのように語っている。恨みの言葉は聞かれず、父に対する愛着さえ感じる。
この心境に至るまでには、故郷に対する思いと同じで長い時間を要したと思う。千代にとって父と故郷は表裏一体の存在。愛と憎悪がからみあう激しく複雑な存在だ。それに整理をつけて思いを昇華させるには、人生の経験値を積んで得られる知識や内面の成長が必要だろう。
