「純印度式カリー」を売り出したワケ

当時の日本のカレーは英国から伝わった小麦粉を使うもので、本格的なスパイスを効かせたこの一皿は町の洋食屋のカレー10〜12銭に対して80銭。それでも飛ぶように売れた。のちに中村屋がこのカリーを「恋と革命の味」と呼び、6月12日を「恋と革命のインドカリーの日」としているのは、この来歴があるからだ。

インド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボース
提供=中村屋
インド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボース

中村屋のアトリエに迎えられた外国人は、ボースだけではない。ウクライナ生まれの盲目の詩人ワシリー・エロシェンコは、送金が途絶えて困窮していたところを、大正5年(1916年)から黒光が住まわせた。大正10年(1921年)、社会主義者の嫌疑で国外退去命令が出て警官が店に踏み込んだとき、愛蔵はその乱闘を告訴し、淀橋警察署長を引責辞任させた。彼との出会いがきっかけでメニューに加わった「ボルシチ」は、喫茶部のもう一つの名物になった。行き場のなかった忠蔵を長屋が受け入れたように、中村屋も行き場のない者を迎える場所だった。

ボースと結婚した相馬愛蔵の娘・俊子
提供=中村屋
ボースと結婚した相馬愛蔵の娘・俊子

彫刻家・荻原守衛らが集った「中村屋サロン」

店には芸術家も出入りしていた。中心にいたのは愛蔵と同郷の彫刻家・荻原守衛(碌山)である。パリでロダンに出会って彫刻へ転じ、明治41年(1908年)に帰国すると新宿にアトリエを構え、中村屋に通いつめた。碌山を慕って中原悌二郎や戸張孤雁が集まり、碌山が30歳で没したあとは中村つねがアトリエに住み込んで描いた。高村光太郎や女優の松井須磨子も顔を出している。夫妻はそこに制作の場と食事を用意していた。

「中村屋サロン」という呼び名は当時のものではない。安曇野出身の作家・臼井吉見が、講演で中村屋をヨーロッパのサロンのようだったと語ったところから広まった、後世の言葉である。愛蔵の側から見れば、故郷で私塾に金を出したことと、東京で若い作り手に部屋を出したことは、地続きだった。

昭和初期の純印度式カリーのセット
提供=中村屋
昭和初期の純印度式カリーのセット