キリスト教に入信、大関和と出会う
明治23年(1890年)に東京専門学校を卒業した愛蔵は北海道へ渡り、札幌農学校で養蚕を学ぶ。帰郷後は蚕の卵を作る蚕種製造に打ち込んだ。明治27年(1894年)には『蚕種製造論』を著した。
東京でキリスト教に出会った愛蔵は、帰郷した明治24年(1891年)に東穂高禁酒会を立ち上げる。キリスト教の受け止め方は真面目すぎるほど真面目で、教えに合わないものと折り合いをつけるということをしない人だった。禁酒だけでなく、村に芸妓置屋を置く計画への反対も掲げ、内村鑑三らが応援演説に来た。明治31年(1898年)には、教職を追われた井口喜源治を担ぎ、私塾「研成義塾」を開くよう提案して援助している。昭和13年(1938年)の閉校までに約800人を送り出している。
本郷の東大前でパン屋を繁盛させる
明治30年(1897年)、愛蔵は仙台藩士の娘・星良、のちの黒光と結婚した。その黒光が穂高の暮らしに合わないと見た愛蔵は、上京を決めた。人に雇われるのを嫌い、夫婦でできる商売を探した末に選んだのがパンである。商いの経験はない。1日のうち2食をパンにする生活を3カ月続けて将来性を確かめ、明治34年(1901年)12月30日、本郷の東京帝国大学正門前にあったパン屋「中村屋」を居抜きで買い取る。繁盛店だったので、店名もそのまま引き継いだ。明治37年(1904年)にはクリームパンを創案している。
先代が米相場で店を手放したと知った愛蔵は、相場や株には手を出さない、めどが立つまで衣服は新調しない、食事は主人も店員も女中も同じものにする、ということなどを自分たちで決めた。相手が誰であっても同じ調子で向き合う人で、店は職人にも芸術家にも亡命者にも同じように開いていた。