現在も店がある新宿へ引っ越す
商売は順調だったが、その伸びが税務署の目に留まる。当時は売上高を少なく申告し、税務署もそれを見越して上乗せするのが慣例だったなかで、相馬黒光はありのままを申告し、重い税を課された。売り上げを増やすほかに道はないと考えた二人は、自分の足で見て回った末に支店を新宿に決める。市内電車(路面)の終点以外に適地はないという判断だった。明治40年(1907年)に支店を開き、明治42年(1909年)には新宿の現在地に移転し、本店とする。譲り受けた店で新しいものを売っていく忠蔵の商売は、この道筋をなぞっている。
大正12年(1923年)の関東大震災では、被害の少なかった新宿で「地震パン」「地震饅頭」「奉仕食パン」を夜通し作り、被災者に特価で提供した。喫茶部を開いたのは昭和2年(1927年)6月12日。買い物のあとに一休みできる場所がほしいという客の声に応えたもので、月餅と、現在の中華まんにあたる「天下一品支那饅頭」もこの年に出た。忠蔵のコーヒーと蒸麺包パンは、この喫茶部と支那饅頭を先回りした形になる。
中華まんがヒット、株式を公開
その年の記録では、従業員60名、年間の売上高は約37万円。昭和12年(1937年)には少年店員のための企業内学校「研成学院」を作り、同14年には株式を公開した。故郷で井口喜源治に開かせた研成義塾と、店の学校は名前の二文字が重なる。
喫茶部の開設は今から約100年前。それと同時に売り出したのが、「純印度式カリー」である。持ち込んだのは、インド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボースだった。英国官憲に追われて日本へ亡命したものの、日英同盟を結ぶ日本政府から国外退去を命じられる。退去期限の前日、相馬夫妻は彼を中村屋のアトリエにかくまった。逃亡生活を支えた長女・俊子はのちにボースと結婚し、大正14年(1925年)に26歳で世を去る。俊子の死後も交流は続き、本場のカリーを日本に紹介したいというボースの求めが、喫茶部の看板になった。