「風、薫る」(NHK)に登場する忠蔵のモチーフは、純印度式カリーで有名な新宿中村屋の創業者・相馬愛蔵だ。相馬の史実について調べたライターの田幸和歌子さんは「愛蔵は主人公りん(見上愛)のモチーフ・大関和とキリスト教で結びつき、深い交流があった」という――。
相馬愛蔵の肖像写真
相馬愛蔵の肖像写真(写真=新宿中村屋公式サイト/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

「風、薫る」の愛されキャラ、忠蔵

9月25日に最終回を迎えるNHK連続テレビ小説「風、薫る」(脚本・吉澤智子、原案・田中ひかる『明治のナイチンゲール 大関和物語』)に登場する丸山忠蔵(若林時英)。出会いは、りん(見上愛)と直美(上坂樹里)が勤める帝都医大病院の外科に苔癬たいせんで入院し、直美が実習で受け持ったことだった。治療費の代わりに医学の研究と教育に協力する学用患者で、直美の看護により背中の痒みが改善、心を開いていく。

惚れっぽく、優しくしてくれたりんに告白して丁重に断られた展開もあった。また、退院後は行き場がなく、直美が住んでいた長屋に落ち着いた。団子屋「田之上屋」の見習いから店を譲り受け、まだ広まっていないコーヒーを出し、「蒸麺包パン」という新商品まで考え出す。

この人物のモチーフを、脚本の吉澤智子は公表している。新宿中村屋の創業者・相馬愛蔵そうまあいぞう(1870〜1954年)である。愛蔵が入院中に大関和の看護を受けた史実をヒントにキャラクターを作ったこと、実際にはパン販売店を買い取る人物だがそのとおりには描いていないので、大山捨松(多部未華子)や清水卯三郎(坂東彌十郎)のように実名にはしていないと語っている(ステラnet、2026年6月3日)。

新宿中村屋の創業者・相馬愛蔵

ドラマの忠蔵は長野の出で、両親がなく、兄が親代わりだという。ここは史実に沿っている。相馬愛蔵は明治3年(1870年)、信濃国安曇郡の白金村、のちの東穂高村(現・長野県安曇野市穂高)に生まれた。1歳にならないうちに父・安兵衛が、その5年後には母・ちうが世を去る。年の離れた兄に育てられ、子に恵まれなかった兄夫妻の養嗣子になった。

明治17年(1884年)、長野県中学校松本支校(現・長野県松本深志高校)に進む。同じ村から中学へ進んだのは、のちに教育者となる井口喜源治との2人だけだった。翌年には上級生の木下尚江と親交を結ぶ。のちに足尾銅山鉱毒事件や普通選挙運動で知られるジャーナリストで、交友は生涯続いた。

木下尚江(1869~1937年)の肖像写真
木下尚江(1869~1937年)の肖像写真(写真=国立国会図書館デジタルコレクション/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

皮膚病で帝大病院に入院した

明治20年(1887年)に東京専門学校(現・早稲田大学)へ進むが、その入学前、愛蔵は疥癬にかかって帝国大学医科大学附属第一医院(現・東京大学医学部附属病院)に入院する。ヒゼンダニが皮膚に寄生する病で、夜も眠れないほどかゆい。治療に使う軟膏はひどく臭った。ほかの看護婦が嫌がるなか、和が一日に何度も塗布を引き受けている。和がこの病院で外科の看病婦取締、いまの看護師長になったのは明治21年(1888年)10月である。ドラマは病名を苔癬に変えているが、背中のかゆみを訴える患者と、薬をめぐって動く看護婦という組み合わせはそのままだ。忠蔵は入院のせいで仕事も下宿も学校も失うが、愛蔵にそれは起きていない。

キリスト教に入信、大関和と出会う

明治23年(1890年)に東京専門学校を卒業した愛蔵は北海道へ渡り、札幌農学校で養蚕を学ぶ。帰郷後は蚕の卵を作る蚕種製造に打ち込んだ。明治27年(1894年)には『蚕種製造論』を著した。

東京でキリスト教に出会った愛蔵は、帰郷した明治24年(1891年)に東穂高禁酒会を立ち上げる。キリスト教の受け止め方は真面目すぎるほど真面目で、教えに合わないものと折り合いをつけるということをしない人だった。禁酒だけでなく、村に芸妓置屋を置く計画への反対も掲げ、内村鑑三らが応援演説に来た。明治31年(1898年)には、教職を追われた井口喜源治を担ぎ、私塾「研成義塾」を開くよう提案して援助している。昭和13年(1938年)の閉校までに約800人を送り出している。

看護学校時代の大関和
提供=医療法人知命堂病院
看護学校時代の大関和

本郷の東大前でパン屋を繁盛させる

明治30年(1897年)、愛蔵は仙台藩士の娘・星良、のちの黒光と結婚した。その黒光が穂高の暮らしに合わないと見た愛蔵は、上京を決めた。人に雇われるのを嫌い、夫婦でできる商売を探した末に選んだのがパンである。商いの経験はない。1日のうち2食をパンにする生活を3カ月続けて将来性を確かめ、明治34年(1901年)12月30日、本郷の東京帝国大学正門前にあったパン屋「中村屋」を居抜きで買い取る。繁盛店だったので、店名もそのまま引き継いだ。明治37年(1904年)にはクリームパンを創案している。

本郷の東大の前にあった創業当時の中村屋
提供=中村屋
本郷の東大の前にあった創業当時の中村屋

先代が米相場で店を手放したと知った愛蔵は、相場や株には手を出さない、めどが立つまで衣服は新調しない、食事は主人も店員も女中も同じものにする、ということなどを自分たちで決めた。相手が誰であっても同じ調子で向き合う人で、店は職人にも芸術家にも亡命者にも同じように開いていた。

中村屋創業者・相馬愛蔵と妻の黒光
提供=中村屋
中村屋創業者・相馬愛蔵と妻の黒光

現在も店がある新宿へ引っ越す

商売は順調だったが、その伸びが税務署の目に留まる。当時は売上高を少なく申告し、税務署もそれを見越して上乗せするのが慣例だったなかで、相馬黒光はありのままを申告し、重い税を課された。売り上げを増やすほかに道はないと考えた二人は、自分の足で見て回った末に支店を新宿に決める。市内電車(路面)の終点以外に適地はないという判断だった。明治40年(1907年)に支店を開き、明治42年(1909年)には新宿の現在地に移転し、本店とする。譲り受けた店で新しいものを売っていく忠蔵の商売は、この道筋をなぞっている。

大正12年(1923年)の関東大震災では、被害の少なかった新宿で「地震パン」「地震饅頭」「奉仕食パン」を夜通し作り、被災者に特価で提供した。喫茶部を開いたのは昭和2年(1927年)6月12日。買い物のあとに一休みできる場所がほしいという客の声に応えたもので、月餅と、現在の中華まんにあたる「天下一品支那饅頭」もこの年に出た。忠蔵のコーヒーと蒸麺包パンは、この喫茶部と支那饅頭を先回りした形になる。

新宿に移転した中村屋、関東大震災のあと特価販売で賑わう。大正末期
提供=中村屋
新宿に移転した中村屋、関東大震災のあと特価販売で賑わう。大正末期
中村屋の月餅と天下一品志那饅頭(肉まん)
提供=中村屋
中村屋の月餅と天下一品志那饅頭(肉まん)

中華まんがヒット、株式を公開

その年の記録では、従業員60名、年間の売上高は約37万円。昭和12年(1937年)には少年店員のための企業内学校「研成学院」を作り、同14年には株式を公開した。故郷で井口喜源治に開かせた研成義塾と、店の学校は名前の二文字が重なる。

喫茶部の開設は今から約100年前。それと同時に売り出したのが、「純印度式カリー」である。持ち込んだのは、インド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボースだった。英国官憲に追われて日本へ亡命したものの、日英同盟を結ぶ日本政府から国外退去を命じられる。退去期限の前日、相馬夫妻は彼を中村屋のアトリエにかくまった。逃亡生活を支えた長女・俊子はのちにボースと結婚し、大正14年(1925年)に26歳で世を去る。俊子の死後も交流は続き、本場のカリーを日本に紹介したいというボースの求めが、喫茶部の看板になった。

「純印度式カリー」を売り出したワケ

当時の日本のカレーは英国から伝わった小麦粉を使うもので、本格的なスパイスを効かせたこの一皿は町の洋食屋のカレー10〜12銭に対して80銭。それでも飛ぶように売れた。のちに中村屋がこのカリーを「恋と革命の味」と呼び、6月12日を「恋と革命のインドカリーの日」としているのは、この来歴があるからだ。

インド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボース
提供=中村屋
インド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボース

中村屋のアトリエに迎えられた外国人は、ボースだけではない。ウクライナ生まれの盲目の詩人ワシリー・エロシェンコは、送金が途絶えて困窮していたところを、大正5年(1916年)から黒光が住まわせた。大正10年(1921年)、社会主義者の嫌疑で国外退去命令が出て警官が店に踏み込んだとき、愛蔵はその乱闘を告訴し、淀橋警察署長を引責辞任させた。彼との出会いがきっかけでメニューに加わった「ボルシチ」は、喫茶部のもう一つの名物になった。行き場のなかった忠蔵を長屋が受け入れたように、中村屋も行き場のない者を迎える場所だった。

ボースと結婚した相馬愛蔵の娘・俊子
提供=中村屋
ボースと結婚した相馬愛蔵の娘・俊子

彫刻家・荻原守衛らが集った「中村屋サロン」

店には芸術家も出入りしていた。中心にいたのは愛蔵と同郷の彫刻家・荻原守衛(碌山)である。パリでロダンに出会って彫刻へ転じ、明治41年(1908年)に帰国すると新宿にアトリエを構え、中村屋に通いつめた。碌山を慕って中原悌二郎や戸張孤雁が集まり、碌山が30歳で没したあとは中村つねがアトリエに住み込んで描いた。高村光太郎や女優の松井須磨子も顔を出している。夫妻はそこに制作の場と食事を用意していた。

「中村屋サロン」という呼び名は当時のものではない。安曇野出身の作家・臼井吉見が、講演で中村屋をヨーロッパのサロンのようだったと語ったところから広まった、後世の言葉である。愛蔵の側から見れば、故郷で私塾に金を出したことと、東京で若い作り手に部屋を出したことは、地続きだった。

昭和初期の純印度式カリーのセット
提供=中村屋
昭和初期の純印度式カリーのセット

愛蔵が同郷の木下尚江を和に紹介

愛蔵と和の縁は、退院後も切れなかった。和が新潟の高田にいると知ると、安曇野からわざわざ訪ねている。和と木下尚江を結んだのも愛蔵で、その二人に結婚話が出たときに反対したのも愛蔵だった。和のほうが11歳年上で、社会的な評価も地位も上だという理由である。恩人であり、友人であり、縁談を止めた人でもある。

もっとも、愛蔵が名前を変えて物語に登場するのは今回が初めてではない。木下の小説『霊か肉か』にも、相馬夫妻は名を変えて出てくる。昭和43年(1968年)に芸術座で上演された『カリーライス誕生』では、中村吉右衛門が演じた愛蔵の役名は「淳蔵」だった。翌年にはTBSの帯ドラマ枠「ポーラテレビ小説」で『パンとあこがれ』(脚本・山田太一)が放送されている。そして2026年、愛蔵は「丸山忠蔵」になった。

1927(昭和2)年、中村屋喫茶部(レストラン)開設当日の記念写真
提供=中村屋
1927(昭和2)年、中村屋喫茶部(レストラン)開設当日の記念写真

信州の村から出てきて、商いの経験もないままパン屋を買い、その店を人の集まる場所に変えた。カレーを日本に広めた商人という一行では、この人は収まらない。安曇野の私塾も、新宿のアトリエも、震災の夜のパンも、すべて同じ人の仕事である。

「風、薫る」で忠蔵の田之上屋にも、りんと直美のほか、りんに会いに通う島田健次郎(佐野晶哉)、直美と腐れ縁の寛太(藤原季節)、りんの娘の環(瀧七海)が足を運ぶ。用がなくても人が寄ってくるあの団子屋は、モチーフになった男が新宿で開いた店の縮図である。

・参考資料
新宿中村屋『中村屋の歴史(明治・昭和)』『中村屋サロンの歴史』『創業者ゆかりの人々(木下尚江、ワシリー・エロシェンコ、荻原守衛、中村彝、井口喜源治、ラス・ビハリ・ボース)』『商品の歴史(ボルシチ)』『中村屋サロン美術館 美術館概要』『恋と革命のインドカリーの日』、安曇野市『安曇野ゆかりの先人たち 相馬愛蔵』、深志同窓会『新宿中村屋を開業した相馬愛蔵』、国立国会図書館『近代日本人の肖像 相馬愛蔵』、上越市『当市で看護教育や地域医療などに尽力した『大関和』をモチーフとした連続テレビ小説『風、薫る』』、毎日新聞出版『Newsがわかる特別編 大関和がわかる』、大田原市那須与一伝承館『近代看護の先駆者『明治のナイチンゲール 大関和』』展示図録、ステラnet「『風、薫る』脚本・吉澤智子『丸山忠蔵(若林時英)のモチーフは、新宿老舗カレー店の創業者!』」(2026年6月3日)、NHK「風、薫る」公式サイト・公式Xおよび各話あらすじ