「人魚を食べれば永遠の命が…」

「ちいかわ」において、食事は生きる喜びの中心にある。幸福はたいてい、小さな食卓の周辺にある。だが同時に、食べることは怪異への入口でもある。正体のわからないものを口にし、食べることで身体や運命が変わる。食べる者食べられる者の立場が、突然逆転する。

「人魚を食べれば永遠の命が得られる」という言い伝えも、日本各地の人魚伝承を想起させる。代表的なのが、人魚の肉で年を取らなくなった女性をめぐる八百比丘尼やおびくにの伝説だ。若狭小浜に伝わる代表的な型では、娘はそれが人魚の肉とは知らずに口にする。そこでの不老不死は幸福ではない。自分だけが人間の時間から外れ、周囲に先立たれ、ひとり残される。

福井県小浜市の空印寺にある八洞比丘尼入定
福井県小浜市の空印寺にある八洞比丘尼入定、写真=投稿者KaoLee(写真=CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

『映画ちいかわ』は、この構造を変奏する。本作で人魚の煮付けを食べさせる動機は、大切な相手を救いたいという願いだ。知らずに得た者の代償が孤独なら、奪って得た者の罰は追跡になる。不死とは祝福ではなく、選択から永久に逃れられなくなることだ。なぜ人魚の肉が不死をもたらすのか、その原理は語られない。しかし因果だけは確実に残る。

和歌や俳句にも通じる描き方

こうした民話的な残酷さを漂わせながら、「ちいかわ」の感情の表し方は和歌や俳句のように繊細だ。紀貫之による『古今和歌集』仮名序は、人は心に思うことを「見るもの聞くものにつけて」言葉にすると説く。つまり「悲しい」「うれしい」と先に名づけるのではなく、花や鳥に触れた瞬間、輪郭のなかった心が言葉になる。「ちいかわ」の感情も、この順序で動く。雨が降る。温かい食べ物が出てくる。昨日まであったものが、今日はもうない。そうした小さな出来事に触れて、泣いたり、震えたり、歌ったり、ひとりごつ。

そして、その心を説明し切らず、像と像の間に余白を生む。これは、俳句の「切れ」に近い作法だ。松尾芭蕉の有名な句「古池や蛙飛びこむ水の音」が一瞬の水音だけで前後の静けさを想像させるように、「ちいかわ」もしばしば、説明が欲しくなった瞬間に話が終わる。楽しい食事の直後に正体のわからないものが映る。笑顔の次に無言の表情が置かれる。物語はそこで切れる。しかし、感情は切れない。