灰色のモブたちは“推し”を拒む
ここまでに見てきた技法は、実は同じ「伏せる」という操作に集約できる。「ちいかわ」が民話と重なるのは、なぜ怪異が起きるのか、その原理を伏せる語り口だ。和歌や俳句に通じるのは、登場人物がどう感じたのか、感情の名を伏せる作法。そして『映画ちいかわ』は、そこに3つ目を加えた。共同体のなかで責任を負うべき顔を伏せるのである。
その先にあるのが、灰色の島民たちだ。「ちいかわ」は本来、きわめて推しを生みやすい作品である。表情、口調、性格、食べ方、怖がり方。その差異が観る者の愛着へ変換される。ところが島民たちは、その原則から局所的かつ徹底的に外されている。固有の人格が、集団のなかに沈んでいる。「ちいかわ」世界における反キャラクターだ。
「かわいいから許す」とはならない
灰色のモブ自体は原作にもいる。だが漫画で群衆を灰色に描くことと、映画の巨大なスクリーンで一群だけを無彩色にとどめることは別の行為だ。漫画ではモブ表現として通過し得た灰色が、映画では巨大な画面と鮮やかな色彩との対照によって前景化する。原作の記号が、映画では演出へと引き上げられている。
そのため観客は、特定のキャラクターへの好悪で判断できない。かわいいから許す、嫌いだから罰してほしいという回路を切断され、そこで行われた恐るべき行為と、そこへ至った思考や選択そのものを見つめざるを得なくなる。
ここでの「伏せる」は、書き手の怠慢でも優しさでもない。判断を受け手の側へ渡すための技術だ。読者に心を委ねてきた作品が、映画では客席に裁きの宙吊りを残す。
“殺しの罪”と“共同体の罪”
しかも本作の罪は2つある。「人魚を殺した個人の罪」と、犯人を特定できないまま高額報酬を掲げ、島外の者を危険へ呼び込んだ「共同体の罪」。後者を誰が言い出し、誰がどこまで賛同したのか、映画は示さない。責任者が存在しないのではなく、存在するはずなのに指させないのである。
灰色の没個性的なキャラクターを通じて表現される「行為の匿名化」。それは、この事件を特別な誰かがその個性ゆえに起こしたものではなく、状況次第では誰もが選び得る行為として提示する。大切な人を失いたくない。自分たちの生活を守りたい。ひとりが反対しても何も変わらない。どれも理解不能ではない。だからこそ恐ろしい。自分もまた顔の見えない集団の一員になることで、誰かの犠牲を見ないことにしているのではないか。島民たちの「灰色」は、「善と悪の中間色」であると同時に、「観客自身を映す色」でもある。



