赤痢防疫に奔走した和はヒーローに

和は高田では新潟県から依頼を受けた赤痢防疫に奔走し、「避病院」と呼ばれた隔離施設での衛生改善に着手した。てんでばらばらに捨てられていた排泄物を1カ所にまとめ、穴を掘ってすべてに土を被せるよう指導するなど、ナイチンゲール方式に基づく地道な実践が感染拡大を防いだ(大田原市「広報おおたわら」)。

やがて「明治のナイチンゲール」の名は全国へ広がった。明治29年(1896年)に東京へ戻り、東京看護婦会講習所の講師を経て明治34年(1901年)には会頭を引き継いだ。このころ、高田の廃娼運動で知り合った弁護士・木下尚江(のちに社会主義者として知られる)との縁談もあったが、最終的に和は婚姻を断念した(亀山美知子著『大風のように生きて』)。

明治32年(1899年)には看護婦界初の団体である大日本看護婦人矯風会を設立し、同年『派出看護婦心得』を刊行。明治37年(1904年)には日比谷公園の祝勝大会で群衆の中に死傷者が出ると、救護鞄を抱えて橋の欄干から人波に飛び込み、次々と傷ついた人を救い出した。群衆を制止できない警官を見て「貴官の剣を貸し給え」と絶叫した。この体ごとの行動力こそが、和という人物の真骨頂だった。明治41年(1908年)には『実地看護法』も世に送り出して、看護の意義を言葉でも社会に刻んだ。

正義感が強く、感情の起伏も激しい

植村正久の三女・環はこう記している。

「大関ちか女史は傑出した婦人であったが、よく泣かれた。繁々しげしげ来られてはせきを切って落とされる。すると大関さんを愛敬していた父は慰めるのか揶揄からかうのか分からぬ調子で『あなたはナイチンゲールなんでしょう、それじゃ宛然さながら「泣キチンかえる」ではないか』などといっていた」(『植村正久と其の時代 第二巻』)

植村正久の肖像写真
植村正久の肖像写真、1925年以前(写真=『植村正久伝』/国立国会図書館/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

「泣キチン蛙」とはすなわち「泣くナイチンゲール」。傑出した看護婦でありながら、困ると師のもとへ飛んでいっては涙をこぼす――そのギャップこそが和という人物の人間味だろう。明治42年(1909年)には大関看護婦会を設立し、廃娼運動・禁酒運動・婦人参政権運動にも積極的に関わった和は、昭和7年(1932年)5月22日に逝去した(享年74歳、一説に73歳、75歳)。

一方、東京看護婦会を和に譲って引退した雅は、沼津で静かに余生を過ごし、昭和15年(1940年)に82歳で生涯を閉じた。