看護学校一期生、鈴木雅との出会い
養成所ではスコットランド出身でナイチンゲール直系のアグネス・ヴェッチが指導にあたり、本格的なナイチンゲール方式の教育が始まった(女子学院特設サイト)。寄宿舎で寝食をともにし、授業の合間に食事の支度や洗濯をこなす生活の中で、第一期生8名(一説に6名とも)は学びを積み重ねた。
その中に、和とほぼ同じ境遇を持つ鈴木雅(安政4年〈1858年〉生まれ)がいた。旧幕臣の家の娘で、西南戦争に従軍した夫・鈴木良光を仙台で亡くしたシングルマザー。2人の子を持つ雅が看護の道を選んだのは、「充分に看護を受けさせられなかった」夫への悔いからだったという(女子学院特設サイト)。
女性が日本髪を結うのが当たり前の時代に断髪で通す実用主義的な風貌が写真に残っている。武家の誇りを持ちながら離婚と死別という逆境をくぐり抜けてきた二人が、同じ養成所の第一期生として出会ったのは、偶然と呼ぶにはできすぎた縁だった。明治21年(1888年)10月26日、一期生は卒業。日本で初めて正規の訓練を受けた「トレインドナース」の誕生である。
「風、薫る」直美とは違い、幕臣の娘
卒業の際、雅の卒業証書だけにヴェッチが「看護学を教えるにふさわしい」と署名入りで書き添えた(女子学院特設サイト)。養成所でヴェッチの通訳を務め、英語でナイチンゲールの原書を読んでいた雅を、師は確かに見ていたのだ。
卒業後、和は帝国大学医科大学第一医院の外科看病婦取締(看護婦長)に、雅は内科の同職に就く異例の抜擢を受けた。帝大病院での和の働きぶりはすでに際立っていた。学生寮の火災が起きたとき、お金を持たない学生たちのために無償で看護を引き受け、貧しい入院患者には自分の給料をはたいて世話をすることもあったという(女子学院特設サイト)。
そして明治23年(1890年)、二人はそれぞれの道へ進む。和は帝大病院を退職し、新潟県高田の知命堂病院の初代看護婦長に就任した。感染症が猛威を振るう地方の現場へ、みずから飛び込む選択だった。一方、雅は明治24年(1891年)に文京区本郷で「慈善看護婦会」を設立した。これが日本初の個人経営による派出看護婦の組織、今日の訪問看護・看護派遣事業の原型である(『明治のナイチンゲール 大関和物語』)。現場に飛び込んだ和と、看護婦が自立して働ける仕組みを社会に作ろうとした雅――同じ志を持ちながら、二人は見事に役割を分かち合っていった。