NHKドラマ「風、薫る」は大関和、鈴木雅という実在した看護師の先駆者2人をモチーフに、140年前の友情物語を描く。朝ドラに詳しいライターの田幸和歌子さんは「大関さん、鈴木さんの経歴を知ると、パワフルな生き方に圧倒される」という――。
「桜井女学校の看護婦生徒とアグネス・ヴェッチ」の写真、前列右から2番目が大関和
「桜井女学校の看護婦生徒とアグネス・ヴェッチ」の写真、前列右から2番目が大関和(写真=佐波亘『植村正久と其の時代 第5巻』(1938年9月28日発行)より/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

「風、薫る」のモチーフになった女性

3月30日にスタートする朝ドラことNHK連続テレビ小説「風、薫る」。見上愛演じる主人公・一ノ瀬りんのモチーフとなったのが、「明治のナイチンゲール」と称される大関和おおぜきちかだ。そして上坂樹里演じるもうひとりの主人公・大家直美のモチーフとなったのが、和と同期で生涯の友でもあった鈴木雅すずきまさである。ドラマは田中ひかる著の小説『明治のナイチンゲール 大関和物語』(中央公論新社、2023年)を原案としたオリジナル作品だが、「汚い仕事も厭わない賤業」(同書)とさえ見なされていた看護という仕事を、明治という激動の時代に女性の誇れる職業へと押し上げた二人の、波乱に富んだ人生が描かれていく。

大関和は、安政5年(1858年)4月11日、下野国黒羽藩(現・栃木県大田原市)の家老・大関弾右衛門増虎の次女として生まれた。慶応3年(1867年)の藩主急死で父は家老を辞職。田中ひかる著『明治のナイチンゲール 大関和物語』では、その際、弾右衛門は和に「今日より家禄も家も屋敷も返上し、明日からは乞食するかもしれぬが、大関弾右衛門の娘と生れし不幸と思いあきらめよ」と告げ、それでも「いかなるときも学問を怠るな」と教えたと描かれる。

大関和は元家老の娘、19歳で結婚

明治9年(1876年)、父は流行り病に見まわれ50歳で急逝した(『明治のナイチンゲール 大関和物語』)。遺した縁談に従い、和は黒羽藩次席家老の家の渡辺福之進豊綱と19歳(一説に18歳)で結婚。しかし豊綱には結婚前から複数の妾があり、義母には五反のやせ地をあてがわれて米作りを命じられた。『明治のナイチンゲール 大関和物語』は、毎日作業が終わるまで帰宅も許されず、夕食を取り損ねることや牛小屋で眠ることもあったと描く。

そんな中、和は長男・六郎をもうけたのち、二人目の妊娠を機に里帰り出産を宣言。離婚を決意する。そして明治13年(1880年)春に長女シンを出産し、渡辺家に手紙で離縁を伝えると、義父母は使用人を迎えによこしたが、和は追い返した。六郎をめぐる協議は難航したが、後に和は二人の幼子を連れて明治14年(1881年)に上京を果たす(大田原市「広報おおたわら」)。23歳だった。

和は2児を連れ上京、英語塾に通う

上京後しばらくの経緯は記録に残っていないが、やがて神田五軒町の鄭永慶ていえいけい(代々幕府の中国語通訳「唐通事」を務めた家柄でエール大学留学経験を持つ英語堪能な人物)と知り合い、外国人女性との会話に不便を感じたことで英語習得を決意。東京・新橋にある正美英学塾の門を叩いた(毎日新聞出版『大関和がわかる』)。

塾を経営していたのは植村正度といい、植村正久牧師の弟にあたる。通ううちにキリスト教の教えに触れた和は、やがてその教会へと足を運ぶようになる。離婚という傷を抱えたまま異国の言葉を学び、信仰へと歩み寄っていくその数年が、のちの決断の土台になった。

大関和
大関和『実地看護法』(新友館)、大正15(1926)年より(写真=国立国会図書館デジタルコレクション

看護婦が卑しいと思われたワケ

明治19年(1886年)、植村から桜井女学校附属看護婦養成所への入学を勧められたとき、和は戸惑い、拒んだ。なぜなら当時、病人の看護をする者は、お金のために汚い仕事をする卑しい身分の人とされていたためだ。

当時の看護婦がどのような存在だったかは、記録が如実に語っている。『明治女性史』には「吉原の遣手婆やりてばばさんを連れてきて和泉橋の第一病院の看護にあてた。これが最初であったが、その後それが習慣となって」とあり、『職業婦人調査』も「莫連」(すれっからし)、あるいは「出戻りかもなくば あばづれのしたたか者と思われる様な者ばかりであった」と記している。

和自身の回想によれば、「私は実に寝耳に水と申しましょうか、びっくりして『いかにおちぶれたと言っても看護婦とは情けない』と答えました」(『婦人新報』第178号、明治45年4月25日)という。家老の家の出という誇りが、その仕事を受け入れることを許さなかったのだ。

それでも植村は諭し続けた。教養も財産も何不自由ない身でありながら最も慈善的な事業として看護を選んだナイチンゲールを例に挙げ、これほど神様が喜ぶ仕事はないと説いた。「この世で病に苦しんでいる人ほど不幸な人はいない。その病人を真心をもって看護することで天なる父の慈愛を示すのは、これ以上の伝道はない」(『婦人新報』第178号)。さらに従弟から「あなたが天使と仰いでいる植村牧師の勧めは、天にいらっしゃるお父様の思し召しではないのか」と問いかけられ(『明治のナイチンゲール 大関和物語』)、和はついに「神が与えた道」と決意を固める。

すぐにでも意思を伝えたくなった和は、夜道を歩いて植村の自宅を目指した。玄関の戸を叩いたのは夜中の午前1時のことだった(女子学院特設サイト)。明治19年11月に入学し、翌年3月に受洗した(大田原市「広報おおたわら」)。

看護学校一期生、鈴木雅との出会い

養成所ではスコットランド出身でナイチンゲール直系のアグネス・ヴェッチが指導にあたり、本格的なナイチンゲール方式の教育が始まった(女子学院特設サイト)。寄宿舎で寝食をともにし、授業の合間に食事の支度や洗濯をこなす生活の中で、第一期生8名(一説に6名とも)は学びを積み重ねた。

その中に、和とほぼ同じ境遇を持つ鈴木まさ(安政4年〈1858年〉生まれ)がいた。旧幕臣の家の娘で、西南戦争に従軍した夫・鈴木良光を仙台で亡くしたシングルマザー。2人の子を持つ雅が看護の道を選んだのは、「充分に看護を受けさせられなかった」夫への悔いからだったという(女子学院特設サイト)。

女性が日本髪を結うのが当たり前の時代に断髪で通す実用主義的な風貌が写真に残っている。武家の誇りを持ちながら離婚と死別という逆境をくぐり抜けてきた二人が、同じ養成所の第一期生として出会ったのは、偶然と呼ぶにはできすぎた縁だった。明治21年(1888年)10月26日、一期生は卒業。日本で初めて正規の訓練を受けた「トレインドナース」の誕生である。

鈴木雅の写真
鈴木雅の写真(横浜共立学園同窓会)(写真=PD ineligible/Wikimedia Commons

「風、薫る」直美とは違い、幕臣の娘

卒業の際、雅の卒業証書だけにヴェッチが「看護学を教えるにふさわしい」と署名入りで書き添えた(女子学院特設サイト)。養成所でヴェッチの通訳を務め、英語でナイチンゲールの原書を読んでいた雅を、師は確かに見ていたのだ。

卒業後、和は帝国大学医科大学第一医院の外科看病婦取締(看護婦長)に、雅は内科の同職に就く異例の抜擢を受けた。帝大病院での和の働きぶりはすでに際立っていた。学生寮の火災が起きたとき、お金を持たない学生たちのために無償で看護を引き受け、貧しい入院患者には自分の給料をはたいて世話をすることもあったという(女子学院特設サイト)。

そして明治23年(1890年)、二人はそれぞれの道へ進む。和は帝大病院を退職し、新潟県高田の知命堂病院の初代看護婦長に就任した。感染症が猛威を振るう地方の現場へ、みずから飛び込む選択だった。一方、雅は明治24年(1891年)に文京区本郷で「慈善看護婦会」を設立した。これが日本初の個人経営による派出看護婦の組織、今日の訪問看護・看護派遣事業の原型である(『明治のナイチンゲール 大関和物語』)。現場に飛び込んだ和と、看護婦が自立して働ける仕組みを社会に作ろうとした雅――同じ志を持ちながら、二人は見事に役割を分かち合っていった。

赤痢防疫に奔走した和はヒーローに

和は高田では新潟県から依頼を受けた赤痢防疫に奔走し、「避病院」と呼ばれた隔離施設での衛生改善に着手した。てんでばらばらに捨てられていた排泄物を1カ所にまとめ、穴を掘ってすべてに土を被せるよう指導するなど、ナイチンゲール方式に基づく地道な実践が感染拡大を防いだ(大田原市「広報おおたわら」)。

やがて「明治のナイチンゲール」の名は全国へ広がった。明治29年(1896年)に東京へ戻り、東京看護婦会講習所の講師を経て明治34年(1901年)には会頭を引き継いだ。このころ、高田の廃娼運動で知り合った弁護士・木下尚江(のちに社会主義者として知られる)との縁談もあったが、最終的に和は婚姻を断念した(亀山美知子著『大風のように生きて』)。

明治32年(1899年)には看護婦界初の団体である大日本看護婦人矯風会を設立し、同年『派出看護婦心得』を刊行。明治37年(1904年)には日比谷公園の祝勝大会で群衆の中に死傷者が出ると、救護鞄を抱えて橋の欄干から人波に飛び込み、次々と傷ついた人を救い出した。群衆を制止できない警官を見て「貴官の剣を貸し給え」と絶叫した。この体ごとの行動力こそが、和という人物の真骨頂だった。明治41年(1908年)には『実地看護法』も世に送り出して、看護の意義を言葉でも社会に刻んだ。

正義感が強く、感情の起伏も激しい

植村正久の三女・環はこう記している。

「大関ちか女史は傑出した婦人であったが、よく泣かれた。繁々しげしげ来られてはせきを切って落とされる。すると大関さんを愛敬していた父は慰めるのか揶揄からかうのか分からぬ調子で『あなたはナイチンゲールなんでしょう、それじゃ宛然さながら「泣キチンかえる」ではないか』などといっていた」(『植村正久と其の時代 第二巻』)

植村正久の肖像写真
植村正久の肖像写真、1925年以前(写真=『植村正久伝』/国立国会図書館/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

「泣キチン蛙」とはすなわち「泣くナイチンゲール」。傑出した看護婦でありながら、困ると師のもとへ飛んでいっては涙をこぼす――そのギャップこそが和という人物の人間味だろう。明治42年(1909年)には大関看護婦会を設立し、廃娼運動・禁酒運動・婦人参政権運動にも積極的に関わった和は、昭和7年(1932年)5月22日に逝去した(享年74歳、一説に73歳、75歳)。

一方、東京看護婦会を和に譲って引退した雅は、沼津で静かに余生を過ごし、昭和15年(1940年)に82歳で生涯を閉じた。

看護師を尊敬される職業にした

二人が養成所の門を叩いた1886年(明治19年)から、看護婦の資格制度「看護婦規則」が公布されるのは1915年(大正4年)のことだ。

大正7年(1918年)のスペイン風邪、大正12年(1923年)の関東大震災と、未曾有の疾病と天災が相次ぐ中で看護婦の需要は急増し、二人が「賤業」と呼ばれた仕事に飛び込んだ日から、世間はようやくその価値に気づき始めていた。

和は現場で感染症と闘い、雅は看護婦が自立して働ける仕組みをつくった。「吉原の遣手婆さん」や「あばづれ」と呼ばれた職業を、二人はそれぞれの方法で変えていった。その二つの営みが今日の看護職の礎となっている。『明治のナイチンゲール 大関和物語』で田中ひかるが書いたように、「途中、身内の度重なる不幸などさまざまな艱難に出合いながら、それを乗り越え突き進んでいく和の生き方は、現代を生きる私たちに勇気を与えてくれる」。

これから「風、薫る」で展開するのは、そんな二人の「バディ」の物語だ。