恋愛結婚ではなかった説

秀吉とおねの結婚については異説もあります。おねの手習いの師匠・養雲院の夫「因幡守」(名古屋敦順のこと。織田一族。信長は従弟)が「藤吉」(秀吉)はただ者でないということで、秀吉とおねの縁組をおねの父に指図。また因幡守は信長にも秀吉のことを取りなしたと言います(赤穂藩森家が編纂した森家の家史『森家先代実録』)。この場合、秀吉の恩人は因幡守ということになるでしょう。ちなみに名古屋敦順の次男は、美男子として有名な名古屋山三郎です。

さて、浅野夫婦の予言通り、秀吉は織田家において出世していきます。天正元年(1573)、秀吉は信長から北近江三郡を拝領し、ついに大名となったのです。秀吉の主君・信長もまた天正4年(1576)には豪華絢爛な安土城の築城を開始します。その頃、おねは安土の信長のもとを訪れていました。信長がおねに宛てた書状からその事が分かるのです。

織田信長からおねへの手紙、新潟郷土博物館蔵
織田信長からおねへの手紙、新潟郷土博物館蔵(写真=新潟郷土博物館編『紀元二千六百年記念皇国文化史展図録』/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

信長もほめた「見目かたち」

おねは信長にさまざまな土産を持参していたようで、書状の中で信長は「特に色々の土産の美しさ、中々、目にも余り筆にも尽くし難い」と土産の内容を絶賛しています。信長はおねへの祝儀も考えますが「その方(おね)よりの見事な物に対して志が尽くせないので、今回はやめておき、今度、参った時に尽くしたい」と述べ、お返しはしませんでした。続いて信長はおねの容姿について触れています。「見目振り」(見た目)や「かたち」(容姿)が前に見た時より二倍に見上げるほどと、その容姿を褒めているのです。信長からこのように褒められたらうれしいと感じる女性も多いのではないでしょうか。

それはさておき、信長は次に「藤吉郎(秀吉)が繰り返し、その方に不足があるというのは言語道断、曲事だ」と書状に書いています。どうやら秀吉はどこまで本気かは分かりませんが、信長に妻・おねの不満を度々述べていたようです。それを信長はけしからんと言い、おねの肩を持つのでした。「どこを探してもその方ほどの者は二度とあの禿げ鼠(秀吉の渾名)が得るのは困難だ」とまで信長は述べ、おねが素晴らしい女性であると持ち上げるのです。信長はその上で「これ以降は品行を正して、かみさま(上位者の妻)らしく重々しくして、悋気(男女間の嫉妬)に関わるのはよくないことだ」とおねを諭しています。