実母は秀吉との結婚に猛反対
さて、おねは織田信長(小栗旬)に仕えていた秀吉と永禄4年(1561)に結婚することになるのですが、秀吉との結婚については一悶着あったようです。周囲の反対があったのです。特におねの母・朝日殿は娘(おね)と秀吉の結婚を「野合」(周りの反対にもかかわらず、密かに結ばれている。野合には婚前性交の意味合いもある)として猛反対したとのこと(江戸後期の日出藩士・菅沼政常が編纂した『平姓杉原氏御系図附言』)。
しかし、朝日殿は単に野合だから2人の結婚に反対した訳ではなく、同書によると「秀吉公の卑賤を嫌たまひて」(秀吉の出自が卑しいことを嫌い)、結婚に反対していたということです。ご存知のように秀吉は武家の出身などではなく、尾張の貧しい百姓の生まれです。そんな男と娘が結婚して良いのかと朝日殿は考えていたということです。実母の猛反対に遭い、おねも困惑したことでしょう。
そこに助け船を出したのが、朝日殿の妹でおねの養母である七曲殿とその夫・長勝でした。長勝夫婦は「秀吉は卑賤ではあるが、聡明さと勇智(勇気と智慧)はなかなか凡人の及ぶところではありません。英雄の天質(素質)が備わっているので、このような乱世においていつまでも下位にいるような人物ではない。程なく立身しましょう。朝日が結婚を許さないならば、私たちの養女として結婚させたい」と言い、朝日殿を説得したのです。
婚姻が成立、秀吉は浅野家に感謝
朝日殿は折れました。ここにおねは浅野長勝の養女となったのです。このような経緯もあり、秀吉はおねの母・朝日のことをよく思っておらず、後年まで不仲だったと言います。秀吉は常々「我らが舅・姑は浅野長勝夫婦である」と語っていたと言います。秀吉が後に浅野家を厚遇した背景にはそうした要因もあったのでしょう(『平姓杉原氏御系図附言』は江戸後期の編纂であり、その記述にそれほど重きを置くことは危険との見解もあります)。
さて『太閤素生記』(江戸幕府の旗本・土屋知貞がまとめた秀吉の伝記、聞書)には、秀吉とおねの結婚の様が簡略に記述されています。2人が祝言を挙げたのは浅野長勝の長屋であり、その長屋は茅葺であったといいます。藁を敷いた上に薄縁(布で縁どった茣蓙)を置いて祝言をしたと後年、おねは戯言のように語っていたということです(『太閤素生記』)。遠い昔の秀吉との祝言のことをおねは懐かしく思い起こしていたのでしょう。
秀吉とおねは「恋愛結婚」だったとする見解もありますが、秀吉と結ばれた時、おねはまだ10代前半。今で言うとまだ小学校高学年の年齢です。12歳も年上の秀吉に憧れの感情はあっても、激しい恋心を抱いていたかは疑問と言えます。