※本稿は、辻孝宗『一度読んだら絶対に忘れない古文の教科書』(SBクリエイティブ)の一部を再編集したものです。
古文を学ぶと読解力向上につながる
みなさんは、古文の勉強と聞いて何を思い出しますか。“今は昔、竹取の翁といふものありけり~”と意味もなく暗唱させられた、“あり・をり・はべり・いまそかり”と覚えさせられた、だがよく覚えていない……といった声が聞こえてきそうです。
それでは大人になった今、例えばお子さんから「古文の勉強する意味なんてあるの?」と聞かれたら、どう答えるでしょうか。受験に必要だから、と口ごもってしまう方も多いかもしれません。
しかし、私は違います。古文は、国語力や読解力を養うためには最高の科目だと断言できます。古文を理解するには、当時の時代背景や知識をフル動員する必要があります。そして、古文ならではの世界観である「どうにもならない切なさ」を考える必要があります。
すなわち、私がよく話す「欠如」という概念です(後述します)。この読み解き方を身につけることで、現代の物語を読む際にも十分に応用がきくというわけです。
ではなぜ、どうにもならない切なさ、欠如を考えることが重要なのか。それは、今の子供たちの国語力が危機的な状況にあるからです。
“物語の先の展開”が読めない子供たち
『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(石井光太著・文藝春秋社)という本に、注目すべき話があります。最近の子どもたちは、物語を読んでもその意味や文脈を取り違えてしまうケースが増えている、ということを指摘しています。
たとえば、小学生が国語で『ごんぎつね』を習う授業場面についてです。『ごんぎつね』の葬儀の場面で、村人が大きな鍋を使って「何かを煮ている」という描写について、「母親の死体を煮ている」「死体を消毒している」と突飛な答えを言う班があったそうです。前後の文脈は一切無視した内容です。
この本では、日本の子供たちの国語力・読解力がだんだん減ってきているのではないか、ということを指摘しています。物語の前後関係や社会常識、登場人物の心理を想像する力が欠けてしまっているのではないか、ということです。
確かに、自分が生徒に国語を教えていても、物語の先の展開を類推することができる生徒は減っているように感じます。
ではなぜ、国語力・読解力がだんだん減ってきているのか? 自分は国語教員として最近の子供たちを指導していますが、その中で1つの仮説を持っています。それは、「最近の子供たちは、『欠如』が理解できていないからだ」ということです。


