「スマホ」ですぐに結論がわかる環境も大きい

でも、最近の子供たちは、この「欠如」というものを理解しなくなっているように感じます。冒頭の「ごんぎつね」の例でもそうですが、「家族が亡くなってしまって、悲しい」「相手と仲良くなりたいけど、仲良くできない」といった当たり前の精神的欠落を読み飛ばしてしまい、文章全体の読解ができなくなってしまっているケースが多いのです。

では、なぜ子どもたちは「欠如」を理解できなくなっているのでしょうか。その背景には、現代社会の豊かさだけでなく、日常生活の中で「欠けている状態」を感じる機会が極端に減っているという現実があります。

たとえば、スマートフォンの普及です。いまの子どもたちは、TikTokやYouTubeのショート動画で「結論だけ」を次々と与えられる環境にいます。一つの物語をじっくり味わう前に、数秒でオチや答えを見てしまう。「なぜそうなるのか」「どうしてこう感じたのか」と考える前に、次の動画にスワイプしてしまう。この“思考の省略”こそが、「欠如を味わう力」を弱めているのです。

スマートフォンを使う女子高生
写真=iStock.com/Satoshi-K
※写真はイメージです

「思い通りにならない」経験が減っている

また、AIの登場も大きいでしょう。宿題や作文をAIに任せることが当たり前になりつつあるいま、子どもたちは「考えてもすぐ答えが出る」環境で育っています。悩んだり、間違えたり、行き詰まったりする――そうした“モヤモヤの時間”こそが、本来は「欠如」を感じる貴重な経験なのに、そのプロセスがごっそり失われているのです。

さらに、家庭や学校の人間関係でも同じことが起きています。昔は友達とけんかして、仲直りの仕方を学んだり、自分の意見をぶつけ合ったりする機会がありました。しかし今では、親や先生がトラブルを未然に防いでくれる。つまり「対立」や「葛藤」といった“痛みを伴う体験”を経験しないまま大人になってしまうのです。結果として、他人の痛みや寂しさ――すなわち「欠如」への共感が育ちにくくなっているのかもしれません。

もちろん、こうした現象の背景には社会の成熟や教育現場の努力もあります。戦後80年を経て、私たちの社会は物質的にも精神的にも豊かになり、子どもたちが安心して暮らせるようになりました。しかし同時に、「思い通りにならない」「待たされる」「努力しても報われない」といった経験が減り、“欠如を抱える”という感覚そのものが希薄になっているのです。