都市伝説は“文脈を完全に無視”したコンテンツ

結果として「自分は何をしたいのか」「どこに向かうべきなのか」がわからず、漠然とした苦しみを抱えてしまうのです。そうした状況で、自分の実体験とはかけ離れた登場人物の「欠如」を読み取るのが難しくなっているのは、ある意味当然のことといえるでしょう。

このことは現代の物語の読み方にも表れています。

少し脱線してしまうのですが、ジブリ映画をめぐる「都市伝説」が、子供達から、議題として上がることがあります。『となりのトトロ』について、YouTubeで見た「実は主人公は死んでしまっている」説こそ正しい、と議論をしかけてくるわけです。

2013年のさっぽろ雪まつり、トトロの雪像
写真=iStock.com/seiksoon
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他の映画やアニメ・漫画も同様です。『クレヨンしんちゃん』のしんちゃんは実は亡くなっているとか、そんな突飛な『都市伝説』は数多あります。

もちろん物語には多様な解釈があってよいのですが、文脈を無視し、物語の文法を踏まえずにワンシーンだけを切り取って突飛な解釈を楽しむ風潮には危うさを感じます。こうした読解が増えてしまっているからこそ、文章が読めなくなってしまっているのではないか、と。

古文は“精神的欠落”や“絶望”の話が多い

本来、物語の魅力は、登場人物がどのような精神的な欠如を抱えているかを理解し、それを埋めようと行動する過程を解釈することにこそあります。その文法を無視した解釈ばかりが広がれば、物語は本当の意味で楽しめなくなってしまうのではないでしょうか。

だからこそ、私は古文を読むことを強く勧めたいと思っています。古典には、胸を掻きむしられるような精神的な欠落や、死を選ばざるを得ないほどの絶望が描かれています。物質的・精神的に満たされている現代の人が忘れてしまっているような「欠如」が描かれており、その欠如を持った人物がどのように行動しているのかがわかるようになります。

そうした世界に触れることは、単に古文が読めるようになるとか、国語の成績が上がるということ以上の意味を持ちます。人間が本来抱えている「欠如」とは何かを知り、その深さを感じる体験になるからです。

冒頭にも述べたとおり、古文なんて勉強してもなんの意味もない、とよく言われます。勉強する意味もないし、コスパも悪い、と。ですが、おそらく古文の勉強をせずに大人になった先で待っているのは、「自分の精神的欠落が理解できず、自分が何をしていいかわからなくなってしまう」という状態です。