「みなが無人島に住むような」社会

話は変わるが、とあるテレビ番組で、無人になってしまった故郷の島に1人で何年も住んでいるという男性が特集されていた。仕事を引退したあと島に移住したそうで、故郷で過ごした少年時代を思い出しながら日々暮らしているという内容だった。

美しい島の海や自然を眺めながら、さぞ悠々自適の生活なのだろうな、と私は素直に思った。この番組を観た多くの人がそう思うだろう。自然に囲まれた島での暮らし、街の喧騒もなく、空気も美しく、人間関係に煩わされることもない。番組のスタッフは視聴者のそうした気持ちを先読みしたかのように、「自由な暮らしで、さぞ日々ゆっくりした時間を過ごしているのでしょうね」と男性に問いかけた。ところが、男性が次のような答えを返したのは、その番組を観ていた多くの人にとって意外だっただろう。

「じつは、朝から晩まで休む暇なく働いているんですよ」

私たちはみな、他者の労働を消費している。そのことを、「共生」と呼んだり、「互酬」と言ったり、「人はみな生かされている」と感じてみたりする。しかし、単なる建前や信条ではなく、そのありがたさを本当に実感する社会がすぐそこに迫っている。

まわりに頼れる人がほとんどいない離れ小島で、ほかの人の労働の力を借りずに日々を送ろうとしている男性の生活は、そのことをありありと表しているように思う。ごはんは自分でつくり、足りない食料品や生活用品を街まで買い出しに行き(無人島なので当然、モノを運んでくれる物流業者などいない)、家のまわりの道が壊れれば自分で補修する。私たちが日々の生活を送るうえで他者の労働の恩恵を受けられなければ、生活するだけで「休む暇もなくなってしまう」のだ。人はほかの人の労働や仕事に頼ることができないと、生活だけで精一杯になるのだ。

慢性的な労働供給不足に直面する日本

社会を維持するために必要な働き手の数を供給できなくなる構造的な人手不足を「労働供給制約」という。「労働供給」というのは、働き手、担い手のことだ。対になる言葉は「労働需要」で、企業などが雇いたい働き手の人数だ。労働の供給をするのは個人で、個人は所得を得るためにその労働を需要主体である企業に売っている。それによって生活を成り立たせている。

あまり言及されないが、社会の高齢化は著しい労働の需給ギャップ(供給の不足分)、需要過剰をもたらすと考えられる。

人は何歳になっても労働力を消費するが、加齢とともに徐々に労働力の提供者ではなくなっていく。この単純な一つの事実が、世界で最も速いスピードで高齢化が進む日本の今後に向けて、大きな課題を提示している。つまり、高齢化率が高まるということは、社会において必要な労働力の需要と供給のバランスが崩れ、慢性的な労働供給不足に直面するということだ。これを「労働供給制約社会」と呼ぶ。