ずっと頭に残った配属初日の言葉

1950年7月、兵庫県西脇市に生まれる。父は地元紙の記者、母は小中学校の教師で、子どものころは同居していた母方の祖父母に育てられる。弟が1人。周囲を山で囲まれた地方都市で、豊かな自然のなかで育ち、地元の小中学校から県立西脇高校へ進む。

東京の大学へ入る例の少ない高校だったが、兄弟で東大へいく。ただ、大学受験の69年春は、大学紛争で東大の入試が中止になり、いったん早大に入り、翌年に受け直す。理学部の数学科へいきたかったが、そこまでの才能に自信はなく、数学が活かせる経済学部を選ぶ。逆に文系の学科が得意だった弟は理系にいき、いまやノーベル賞候補の1人だ。就職では「無から有を創る」という夢を感じた化学業界にひかれ、住友化学工業(現・住友化学)に決めた。

74年4月に入社し、当時は大阪にあった本社の査業部査業課に配属される。全社の事業を俯瞰できる希望通りの部署で、何よりも宝になったのは、配属初日の課長の言葉だ。人格者で知られた人で、「査業というのは、こういうふうに査定をする。だからといって、自分が偉いと勘違いしてはいけない。そういう機能を果たすだけで、決して偉そうな態度をとらず、相手の意見を謙虚に聞きなさい」と、淡々と言われた。これは、いつまでも、頭に残った。

4年務めた後、染料などを手がける大阪製造所(現・大阪工場)の総務部査業課に転じる。現業の部署は、本社とは違い、生々しい情報があふれていた。そこで、全国に散らばっていた染料や顔料などファインケミカル事業で、再編プロジェクトに加わった。工場を閉めるには、当然、賛否両論が湧く。構造改善のためには必要だとの思いで、技術陣と激しくやり合った。そこで、現場に関するいろいろなことを、教わった。

この大阪での5年9カ月が、冒頭の提言で「小さな本社」の実現を目指すことに同感した、原点だ。

2011年4月、社長に就任。まず、自社のいい伝統として全員に実践を求めたのが、言論の自由とプラグマティズム(実用主義)。理屈ばかりをこねず、事象に即して現実的に考え、実際に行動に移す企業文化は、何としても継承していきたい。現場をちゃんとみて「正しい」と思うことを主張し、「正しくない」と思うことは指摘し、行動に移さなくてはいけない。やはり「不可有心」が軸だ。

偉くなると、往々にして、みんなが慮かって物を言わなくなる。それでは、上司は「裸の王様」になりかねない。「自由闊達に議論する」ということこそが、会社を強くする。これも、信念だ。

もし、そういう社風が衰え、提言でも求めた「社長にも遠慮なく物を言い、社長も定期的に現場を回って対話をする」ということができにくくなっているとしたら、危うい。そろそろ、あのときのように、プロジェクトチームで大胆な見直しをしてもらわないと、いけない時期なのかもしれない。

住友化学社長 十倉雅和(とくら・まさかず)
1950年、兵庫県生まれ。74年東京大学経済学部卒業、住友化学工業(現・住友化学)入社。98年精密化学業務室部長、2001年事業統合準備室部長、03年執行役員。04年住友化学に社名変更。06年常務執行役員、09年専務執行役員。11年より現職。
(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
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