「佐々木を早く東京本社に戻せ」

そこで佐々木は社員たちのモチベーションを上げるためコミュニケーションを活発にするだけでなく、あることに細心の注意を払ったという。それは、「社員に不利な情報を上層部に絶対に流さない」ということだった。

出向先の社長は佐々木が社員との意思疎通に積極的で、どの社員がどんな才能を持ち、やる気があるかどうかを熟知していたので、しばしば呼びつけては、その「内部情報」を人事などの参考にした。そのとき、佐々木は把握している情報で話していいことと悪いことを区分けして、上へ流した。そうした姿勢を見たプロパー社員は、「信用に足る」と感じ、ますます佐々木のもとに情報が集まってきたという。人望に厚みを増す佐々木を見て、出向先の社長は側近にこうつぶやいたそうだ。

「佐々木を早く本社に戻さないといけない。あいつは東レ本社でもっと大きな仕事をするべきなんだ」

この繊維商社の業績もV字に回復。佐々木が本社へ復帰するときは金沢の香林坊という繁華街で盛大な歓送会が開かれ、夜中12時すぎに佐々木は交差点のど真ん中で全員から胴上げされた。東レから出向してきた人間で、それほど社員に全幅の信頼を置かれたのはほとんどいなかった。ましてや、夜空を宙に舞った人間などいるはずもなかった。

その後の佐々木の躍進は冒頭で触れた通り。目の前の任務に全力投球するスタイルは、ずっと貫かれ大企業の中枢といえる要職を任されるのである。実は、出向から復帰して出世していくプロセスのさなかも、いいことばかりがあったわけではない。長男は自閉症で問題が次々起きた。妻も肝臓病・うつ病に罹り20年間に43回の入院、3回の自殺未遂をした。しかし、佐々木は家庭内での問題で育児、家事、介護に追いかけられる状況の中でも仕事への情熱を捨てなかったのだ。それは、「左遷を含む逆境も自分の運命として引き受ける」という人生観があったからこそ実現できたに違いない。

佐々木は、2003年に東レ経営研究所社長に就任。数々の企業や事業の再構築を成し遂げ、東レ3代の社長に仕えた経験から独特の経営観を持つ。これまでのキャリアのなかで社内外の「敗者復活劇」を目にしてきたという。