※本稿は青山誠『やなせたかし 子どもたちを魅了する永遠のヒーローの生みの親』(角川文庫)の一部を再編集したものです。
新聞社で出会った小松暢は気が強く、押しも強かった
この他に小松暢の高知新聞社時代のエピソードは数知れず、なかでも有名なのが、広告費の集金にまつわる武勇伝だろうか。
広告費の集金も編集部の仕事で、暢が主にそれを担当するようになる。これが大変な仕事だった。地方雑誌の広告主には地元の個人商店が多く、自転車操業の零細企業は毎月のやり繰りに苦労している。広告費を払うのが惜しくなって、出し渋る店主も珍しくない。
暢は女ながらに編集部ではいちばん気が強く、押しも強い。適任と評価されての抜擢だったのだろう。その性格を知らないある商店主が、広告費を払わずしらばっくれ、あげくに女だからと舐なめた態度に出てきた。それが彼女の逆鱗に触れてしまい、
「ふざけんじゃないわよ。払うの、払わないの! はっきりしなさい!」
大声でタンカを切り、持っていたハンドバッグを店主めがけて投げつけた。バッグは顔面にみごと命中。小馬鹿にして薄笑いを浮かべていた店主は、すっかり青ざめ怯えてしまう。平身低頭しながらすぐに金を出してきた。
小柄で細身な暢は、黙っていると気弱そうにも見える。そのギャップがよけいに人を驚かせた。この一件は昼間の商店街だったこともあり目撃者が多く、高知の街で話題になったのだとか。
いつしか社内では“ハチキン”のあだ名で呼ばれるようになっていた。土佐弁で「お転婆」「男勝り」を意味する言葉だ。また、ハチキンには世話焼きで面倒見のよい姉御肌といった印象もあり、褒め言葉でもあるようだった。
終戦から1年、雑誌の取材で東京へ一緒に出張
仕事が軌道に乗ってきた夏の頃。東京特集が企画され、編集部全員が上京して取材をすることになった。この時にも暢のハチキンぶりが、面倒見の良さのほうで発揮される。
終戦から1年が過ぎても、交通機関のひどい状況は変わらない。空襲で疲弊した鉄道の補修は進まず、列車が遅延するのは常。車両不足で運行本数が少なく、夜行の長距離列車がラッシュ時の通勤電車なみに混みあっている。通路にでも座ることができればまだマシなほう。連結部で数時間立ち続けている者や、車内に入れずデッキの手すりにしがみついている者もいる。
暢は陸上部で鍛えた韋駄天ぶりを発揮して、素早く車内に乗り込み人数分の居場所を確保する。グスグスしていようものなら、
「やなせ君、こっち。早く!」
と、しかられる。同級生なだけに、この頃は気安く君づけで呼ばれていた。