自分だけじゃないと、知ってほしい
彼らは淡々と、時に自分を客観視して、笑みを浮かべながら、その生い立ちをカメラに向かって堂々と語る。
「私もですが、キャスト8人が何を伝えたかったかって言うと、決して、『かわいそう』を伝えたかったわけではないのです。自分たちはこうやって、生きてきたんだということ。これを観てくれる次の世代の子たちに何かパワーを与えたいっていう思いなんです。私にはこの映画は光溢れるものにしたいという思いがありました。ですので、今回はとりわけ、光に焦点を当てました」
サヘルさんには、当事者である子どもたちに対して、強く訴えたい思いがあった。児童養護施設出身者が自死を選んだり、犯罪に巻き込まれたりするなどの、ネガティブな面にずっと胸を痛めてきたからだ。
「みんな、いろいろな傷を抱えて生きている。自分だけだと思ってしまうから孤独になって、死んでいきたいっていう感情に駆られたり、時には誰かを殺してしまうなど、犯罪になってしまったり……。それをどう抑制していくのか。こういう人がいるよって、知ってほしい。自分だけじゃないんだってことを。自分と向き合うのは簡単じゃないけれど、こういう感情を持っている人がいるということを知るだけで、苦しいのは自分だけじゃないって思えたら……。だから、よりきちんと、当事者の声を私は世の中に出したいと思っているんです」
映画やフローラさんにされたことについて語る中で、サヘルさんは何度も、「虐待」という一言で片付けたくないと語った。親を悪者にして、断罪して終わることは間違っていると。
「絶対に、親を悪者にしちゃいけないなって思うんです。なぜなら、親も苦しみを抱えて生きてきた結果でもあるからです。母という人が、これほど孤独になってしまった社会というものがあって、まず、この大人の孤独に気づいてほしい。そして、苦しんでいる母の姿を見ながら、娘や息子がどんな思いで成長しているかを、知ってほしい。誰かが悪者になることが、正解なのではないと思います。母親も悪者なのではなく、被害者でもあるわけですから」
「母娘という言葉がなくなればいい」
サヘルさんは何度も、フローラさんが異国の地でいかに孤独だったかに言及した。
虐待を語る場合、どうしても加害者は悪、被害者は善であるような単純な図式で整理されがちだ。「どうして(実の)子どもにこんなひどい暴力がふるえるのか」「人間の心を持っているのか」と。そうやって悪者を作って一件落着するのではなく、サヘルさんは、社会の縮図の中でもがき苦しむ大人と、その下で育つ無防備な子どもの、どうしようもないありようを、まっさらな視線で捉え直してほしいと希求する。
水面下に封印されてきた母親の嘆きや苦しみと、健気に母を支えようとする分不相応な子どもの無謀な試みと、人間はいかに無様で、切なく、崇高なものであることか。サヘルさんが願うのは、そのありようをそれぞれのキャンバスに、そのままに思い描いてほしいということなのだろうか。
「私は今日、母から何をされてきたのかを確かに話しました。それは、母を愛しているからです。母という存在がいたからこそ、今、私の命がここにあります。血は繋がっていないけれど、それ以上のものを母からもらっています。だから、私は今、大変だけれど、幸せです。結局、ここに尽きるんです」
幸せを実感する今も、家族というものがわからない。でも、それでいいのかもしれないと、ふと思う。
「母というもの、娘というもの、家族というものって、何なのだろうって思います。母という言葉も、娘という言葉もなくなればいいのかも。母や娘という“役割”ではなく、何かがあったときに、瞼の裏に、誰かの顔を思い浮かべることができる人が一人でもいれば、人生は全然、違ってくると思うんです」
『花束』という映画を作り、『言葉の花束』という著書を上梓しながら、サヘルさん自身、「花束」になることはないと言う。
「私のこの人生は、お母さんがつけてくれた“砂漠に咲くバラ”という名前のように、砂漠の枯れ果てた大地の中で、凛と一輪咲いて、最後は散っていくのかな。だから、私が家族を作って、“花束”になることはきっとないのだろうなと思います」
“サヘル・ローズ”として始まった、7歳からの人生。苛烈な環境下に鮮やかな色彩を放つ一輪の花は、どんな嵐の中でもしなやかに凛と、清らかに咲き誇る。目の前のサヘルさんが、まさにそうであるように。


