お母さんの好きな“サヘルちゃん”を演じる
仕事から家に帰れば、サヘルさんは“フローラさんが望む娘”を演じるのが常だ。どんなに苦しくても、サヘルさんを手放さず、必死に生きてきたフローラさんの背中を知っているからだ。
「私は今でも、お母さんの好きな“サヘルちゃん”という人でいようとしています。着ぐるみをつけて、演じます。お母さんの前では、“お母さんが安心する私”、“強い私”であり続けます。本当は家に帰って、お母さんに言いたいことを話したいし、相談もしたい。でも家に帰ったら、こちらからまず、お母さんに『今日、どうだった? 何、あった?』ってインタビュアーのように、お母さんに質問し続けます。お母さんから『あなたはどうだった?』って聞かれると、『仕事、楽しかったよ』って、それだけです。
無意識のうちに自分の葛藤とか悩みを、全然言えなくなってしまっていて。なんで、こうなったのか。ただ、お母さんがキャパオーバーになるようなことは、全く言えないです。お母さんが一人で苦しんでいる姿を小さいときから見ていたし、我慢しているお母さんを知っていたので、子どもも同じになっていくのかなーって思いますね」
では、サヘルさんはいつ、どこで、自分の心の荷物を下ろすことができるのだろう。無防備に自分を曝け出せる場所がなければ、人は潰れてしまう。
「私の中にいるサヘルという人間が住んでいる場所は、母の家とは別に、私の心の中に存在しています。母の前に立つときは、母用の家があって、その家に並べてあるものは全てお母さんが安心するものだけ。自分の家の扉は、別にあります。自分の家に帰るのは、外にいるときだけ。何かを演じているとき、表現しているときは、自分の心の家に戻っています。今、このインタビューを受けているときもそうです。だから、素直に言葉が出てきます。
お母さんといるときは、自分を解放することはないですね。お母さんのために、一生懸命に年齢も下げて、子どもっぽくして、お母さんが安心する“サヘルちゃん”を演じています。お母さんが喜ぶことは、私、全力でやりたいんです。そのことを私は望んでいるのだけれど、それが1週間も続けば、多分、私の心が死んでいくことはわかります」
表現を通じて自分の感情を出す
なぜにここまで、捩れた生を生きねばならないのか。自分が“役割”でしか生きられないとしたら、サヘルさんが看破しているように、きっと窒息してしまう。
「なぜ、私がこうなったか。本当の私は、“娘”であるわけではなく、一人の人間として生きてみたい。役割ではなく、まず、人間でありたい。私は表現という世界に飛び込んで、自分の感情を外に出す、動かすということを、表現を通してやらせてもらっている。そこで私は、心を動かすことができています。それは、とてもありがたいことです」
人間、サヘル・ローズとして生きたい。それは、譲りようがない根源的な欲求だ。しかし、サヘルさんには“娘”という役割を、第一義に貫き通さねばならない自己に課した使命がある。
「お母さんから受けてきたことで、許せないっていう思いもありますが、それは『憎い』とか、『なんで?』というものとは違うんです。私は精一杯、許そうとしてきたし、受けてきた言葉も全部、飲み込んできました。彼女にとっての“家”は、私です。私が、彼女にとっての全て。私がいるから、彼女は生きている。それはもう、絶対に疑いようがないことです。私が、安定剤なんです。私の人生は、お母さんを救うためにある。多分、そのために、私がこの世にいるんだろうなって思います」
2024年、サヘルさん初監督作品である、映画『花束』が完成。主人公は、児童養護施設で育った8人の若者。その、ありのままの姿をドキュメンタリーとフィクションで実験的な構成にした。
「私にとって、映画が最も伝えたいツールだったんです。日本にも社会的養護の場で育つ子どもがいて、乳児院だったり、児童養護施設だったり、里親に引き取られている子達が、何で、親と暮らせなくなったのか。その理由が、実はあまり知られていない。世の中には本を読まない方がいるかもしれない。その方達が、たまたま観た映画で、彼らの事実を知るという、そういうきっかけ作りをしたかった」


