「ぬいぐるみの首を、一生懸命絞めていました」

このインナーチャイルドの存在が、サヘルさんに結婚も、子どもを持つという選択も、不可能なものにしている。

「家族を持つことは、今の私にはできません。怖いし、子どもを愛する自信がない。だって、私のインナーチャイルドが、幼少期に育ったイランの施設に今もずっと残っているから。その子が多分、“刃”が一番強いんです。時たま、出てきます。その子は反発、憎しみ、怒りも、狂気も持っている。その狂気を抑えられるのが、母の前にいるときと、何かを表現しているとき。このときだけは、狂気を出さなくて済むんです。その狂気は人に向かうことはないのですが、すごく自分を傷つけたくなります」

かつて、「狂気」が他へ向かったことが確かにあった。

「これは本当に昔なのですが、お母さんが仕事に行っている間、唯一持っていた愛着のあるぬいぐるみの首を、私、一生懸命、絞めていました。なんか、殺したい感情に駆られたことは何度もあったことを覚えています。でも、私は客観的に自分を見るという特殊能力を身につけることができていたので、『ダメだ、私はすごく危険だ』ってちゃんとわかったから、ぬいぐるみでしたがすぐに手を離しました。もし私が子どもを授かったら、自分を殺すつもりで、ひょっとしたら我が子に手をかけてしまうのではないかって思えてしまい、それが凄く怖いんです」

サヘル・ローズさん
撮影=増田岳二

家族は持てないと断言しながらも、心から湧き出る思いに素直になれば、愛する幸せを感じたい。

「愛したいし、愛されたいです。もちろん、その感情は持っています。でも、相手を幸せにできるかと考えたときに、子どもを授かることは私には想像できないし、とても怖い。自分の中にある感情を、押し殺している自分がいるんです。母親への『なんで!』、あるいは社会への『なんで!』という、自分が受けてきたことへのやりきれない怒りの感情を、私はただ、氷漬けにしているだけなのです。これがもし溶けたら、私の中にあるハリネズミのトゲが、誰に向くのか。きっと、家の中にいる、小さな子どもに向かうと思う」

「恋愛なんて、そんな余裕、全くありませんでした」

サヘルさんは10代からずっと、自分を救ってくれた養母フローラさんを受け止める“役割”を生きてきた。フローラさんの怒りや、やり場のない感情の“ゴミ箱”を引き受け、それでもお互いが大事な存在として、苦楽を共にする運命共同体の日々には、恋愛など入り込む余地はとてもなかった。

「恋愛なんて、そんな余裕、全くありませんでした。私の愛情の全てをお母さんに注がなきゃって思っていたし、お母さんへの愛情が誰か(恋人)によって半減したら、それで、お母さんが傷つくこと自体が怖いんです。お母さんは私に、『絶対に、結婚してほしくない』って、言葉にして言っています。お母さん自身が結婚して苦しんだ経験をしているから、ここまで大変な思いをして育てた娘に、同じ思いをさせたくないって言うわけです。

自分の大事な娘を、男性によって傷つけられたくないっていう思いです。これも、母の愛なんです。だけど、私としたら、逆に失敗したっていいんです。それはもう、自己責任でいいからって思うんです。だけど、『あなたが悲しむ姿は、絶対に見たくない』と、お母さんは言う。それって違う意味で、『私は、悲しいんだけどな』ということに、お母さんは気づいてくれない」

子どもに戻った母

一家の大黒柱がサヘルさんになった今、関係が逆転した。

「私が働くことで生活が成り立っているので、母が一人で家にいることが多くなりました。母からたまに言われるのは、『あなたは、家族というものをわかっていない。いつも、仕事、仕事で人のために何かはするけれど、じゃあ、私は?』と、時に問い詰められます。でも、私からすれば、子どもの頃、私だって、寂しかったよって言いたいです。今は、母親の方がすごく私に依存しています。年齢が上がってくると同時に、いろんなことができなくなって、全て私に頼っています。

自分の考えを持っていた人なのに、『これ、どうしたらいい?』って聞いてきますが、『でも、それ、お母さんが考えなきゃ』としか言いようがないことは多いんです。私がいないと何もできなくなってきているのが、逆に心配になるぐらい。変わっちゃったお母さんを見て、すごく寂しいけれど、でも、変わりたかったわけではなくて、孤独が、お母さんを変えちゃったんだなって思うんです」