ベクトルを「環境」に向けてみる
【武田】「それな!」となりました。
結局そこをジャッジしたがっちゃうんですよね。コッチなのか、ソッチなのか。でも、それは困った状況の原因を個人に帰そうとするからそうなるのであり、環境のほうに矢印を向けると、取れる選択肢はきっともっと増えると思うんですよね。
【勅使川原】そのとおりだよね。まさに障害の「医学モデル」ではなく「社会モデル」の考えですね。
【武田】ただ、「学校の正しさカード」についてもそうなんですけど、すでにある「善し悪し」の価値観は、全部取り払わないといけないのかというと別にそうでもないと思うんです。それは実際難しいし、世の中の“アタリマエ”をすべて相対化してしまったら、それはそれで不便で不安になる……ということもあるだろうと思います。「挨拶なんてしなくていいじゃないか」と単純に言いたいわけでもないんですね。
「どっちか」に振り切らなくていい
いろいろな人がいるなかで、「この人はこれがしんどい」「あの人はあれがしんどい」ということは多様にあるわけです。挨拶の話も、挨拶が緊張してこわい子もいれば、挨拶が返ってこないことで悲しい気持ちになる子もいる。
私も個人的には自然な挨拶が飛び交う空間のほうが心地いいです。「でも、挨拶しなきゃ……という状況がしんどいと感じてる子もいるのだけれども、どうしようか」とみんなで考えることが大事なんだと思います。
どっちかに振りきるんじゃなくて、“いろいろ”を持ち寄って対話することで誰かのしんどさを軽減したり、“正しさ”や“あたりまえ”が生み出す暴力性を下げることはできる。
例えば挨拶のバリエーションをみんなで考えてみることで、「挨拶は『ヨッ』でも、ハイタッチでも、ペコッと会釈でもいいよね」となったら楽になるかも、とか、そういう話もあるじゃないですか。
【勅使川原】あるある。


