現在の対策には“2つの要素”が欠けている
以上を踏まえて、いくつか指摘しておきたい。
第一に、対策法第15条が、いじめ防止対策の中心を「道徳教育」・「体験活動」としている点には疑問がある。そこには、「相手が嫌がっているからこそ、いじめをする」「相手をいかようにでも扱えるという支配関係こそが本質だ」という視点が欠けている。
まず、①犯罪型のいじめ対策に重要なのは、何が犯罪なのかという刑事法に関する知識、刑事法がどのような法益を守ろうとしているのかという法の理念の教育、犯罪から身を守る技術や、犯罪を告発する場合に必要な方法――警察への相談の仕方、金銭被害の記録、傷害時の診断書の確保法――だろう。これらの教育は、「道徳教育」ではなく、「法教育」だ。
次に、②コミュニケーション操作型のいじめは、本来は、人間関係の構築の自由によって解消すべきだ。一般に、自分の意思で離れられる相手であれば、クスクス笑いや悪口を言われても、深刻な事態にはならない。単に相手にしなければいいからだ。学校でコミュニケーション操作によるいじめが成立するのは、児童等がそこでの人間関係から逃れられず、支配が続くことによる。支配関係を終わらせるには、離脱の自由を確保することが不可欠だ。
「道徳」ではなく「法的権利」の教育を
学校現場では、しばしば「クラスみんなで仲良くすること」を善とする価値観が提示され、「道徳教育」でも重視される。しかし、「クラスメイトを無視したり、関係を断ったりすることは良くないこと」と教えれば、クラスメイトから逃れたいと思う児童等を追い詰めることになる。
私たち一人ひとり、気の合わない人、話したくない人とは無理に関係を続けなくてよく、そのような人間関係構築の自由がある、ということをいじめ対策の中心に置くべきだろう。これも「道徳教育」ではなく、法的権利の教育だ。
また、人間関係構築の自由を中心に据えるなら、被害者が加害者から離れたいと申し出た場合、それを支援するメニューを強力にすべきだ。加害者との別室授業の措置(対策法23条4項)だけでなく、加害者の被害者への接近禁止命令のような措置を設けることも考えられる。
いじめをしてはいけない理由は、内容の曖昧な道徳ではなく、法的権利に根拠づけられるべきだ。その上で、仲良くしたい相手と仲良くするには、相手の尊厳や気持ちに配慮することが大切だと道徳を説けばよい。


