「三菱金曜会」で社長たちは何を話し合ってきたのか
では、「三菱金曜会」では具体的に何が話し合われているのか。グループ全体に関わるような重要議題が話し合われているという説と、寄付や商標認可しか話していないという説とがある。無論、社長会の役割・位置付けは時代によって異なり、また発言者の意図によって重要性を隠蔽していることも当然考えられる。
「金曜会に出席したある外国人によると『この会合では非常に重要な決定が下される』という」(『日経ビジネス』1990年10月22日号)。また、三井グループの社長会「二木会」を結成した三井不動産社長・江戸英雄は「三菱は金曜会といいますか、社長会、あれでほとんど大きな方針は決めていますね」(『実業の日本』1967年4月15日号)と語っている。
これに対し、三菱金曜会では「議題として増資計画、社債の発行、寄付問題その他の計画などが報告され、議論される程度で決議機関ではない」(『週刊東洋経済』1960年12月24日号)という証言が多い。
1990年代の日米構造協議で社長会が問題になった時、当時の「三菱金曜会」世話人代表・三村庸平は以下のように語っている。
「私は、三菱グループとしての戦略を話す立場にない。だれも話せやしない。そもそもグループの戦略なんてないのだから。金曜会というのは、同じルーツを持った会社の『同窓会』にすぎない。(中略)米国からは、社長会の議事録を公開せよとの要求もあるが、金曜会など実質は15分。議事録と呼べるものなど最初からない。
確かに、私たちは三菱の名前とスリーダイヤのマークに誇りを持っており、自動車にしても電機にしても三菱のブランド名で海外に出ているので目立ちやすいという面はある。(外部から三菱企業に買収の動きがあったら)、その時は各社が力を合わせて防ぐことになるだろう。歴史が築き上げた信用の社名と商標は守り抜かねばならない。名を汚すような相手には渡すわけにはいきません。ファミリーなのだから(談)」(『朝日新聞』1990年4月23日)。
現在、ガバナンスから外れた金曜会で、重要事項は決定されない?
「三菱金曜会」の役割は時代とともに変化していったようだ。三菱鉱業セメント社長・大槻文平は
「金曜会発足当初の大きな仕事といえば、私にも関係の深い三菱セメントの設立がある。(中略)その後、グループの総力を結集した新規事業、たとえば石油化学や原子力などへの進出に際しても、金曜会は一定の役割を果たしたが、しかし時代の流れとともに状況も変化し、グループ内の競合が目立ちはじめ、それを調整しようにも、支配力と統制力のない金曜会の限界がみえてきた。(中略)金曜会の性格は、このあたり(1964年の組織整備:引用者註)から、商号処理、寄付処理などを主とするサロン的な存在になっていった」(『私の三菱昭和史』)
と語っている。