22年にわたりカメラを回し続け、2014年釈放の瞬間も記録
そもそも笠井監督が秀子さんに初めて連絡をとったのは、袴田事件を知った時に、巖さんが独房で母親など家族に宛てて書いた手紙の存在を知ったのがきっかけ。その実物を見せてほしいと連絡し、実物を実際に見て、触れて、読むうち、大きな衝動に駆られる。それは無罪かどうか以前の、もっと根源的な人間への興味からだった。
「隔離された独房の中で、誰の目にも触れず、声も聞かれず、明日死刑が執行されるかもしれない、そのために生かされている人が、今この瞬間もひっそりと息をしていると考えたら、何かせずにはいられない思いになりました。その人がどんな気持ちでずっと過ごしているのか、人間が生きるということがこんなことで良いのか、人間の有り様に対する哲学的な興味が湧いてきて、知りたい気持ちが大きく、動かずにはいられなかったんです」
巖さんは当時すでに拘禁反応(精神状態の悪化)が酷いことから、家族すら会えず、姉の秀子さんも3~4年に1度、しかも10分程度、国会議員への働きかけなどからようやく会える状態が続いていた。死刑囚の情報は厳しく制限されているため、獄中からの手紙を読み進め、その中に出てくる名前の人を探し、取材し、証言を集めてたどる番組「宣告の果て~確定死刑囚・袴田巖の38年〜」(2004年静岡放送)を制作。これが日本民間放送連盟賞報道番組部門最優秀賞を受賞する。しかし、それでも笠井監督の興味は尽きず、秀子さんのもとに通い、カメラを回し続けるうち、2014年に東京拘置所に入っていた巖さんが釈放されることに。
「生きては会えないかと思った巖さんが目の前に現れた」
「会いたくて会いたくて、ずっと考え続けてきた人が釈放され、目の前にいるとなって、そこからできる限り足を運んで、記録し続けようと思いました。もちろん無罪であってほしい、疑いを晴らしたいとは願い続けていましたが、私の取材のモチベーションはそれとは違う。無罪が認められなかったとしても、たとえ万が一、獄中で亡くなってしまい、ご遺体などの形で初めて面会する日が来たとしても、お会いできるまで注目し続けようと決めて取材していたので、一転、無罪の流れになったのは思ってもみないことでした。私が取材を続けたのは、秀子さんが弟さんを誰が何と言っても信じ抜く気持ちに打たれたことが大きいと思います」
この映画のもう一人の主役と言えるのが、巖さんを信じ続け、支え続けた姉の秀子さん、91歳だ。
袴田家の6人きょうだいの5番目が秀子さん、巖さんは末っ子。当初は母親が巖さんを支えており、そんな母親に巖さんは手紙を獄中から書き、母親のために自分の冤罪を晴らして戻るという目標を掲げていた。