自分の考え方に行き詰まったらどうすればいいか。『苦しくて切ないすべての人たちへ』を上梓した禅僧の南直哉さんは「考え方を本当に変えたいなら、生き方を変えるしかない。そのときに必要なのは“忘れる”勇気」という――。

※本稿は、南直哉『苦しくて切ないすべての人たちへ』(新潮新書)の一部を再編集したものです。

南 直哉
撮影=新潮社

定年退職と同時に入門した61歳

かなり前、バブルの残り火がくすぶっていた頃、ある老僧と話していたら、

「いやあ、なんだな、男は定年になると、蕎麦打ちか出家がしたくなるらしいな」

いつもユーモアに満ちた口ぶりの人だったが、これには大爆笑したものである。

ある程度の年齢、五十歳、六十歳くらいを過ぎてから出家して僧侶になる人を、この業界では「晩年僧」と言ったりするが、これが意外と少なくない。

私の修行した道場にも、五、六年に一度くらいの割合で中高年が入門してきた。

一番驚いたのは、中学の校長先生を定年退職して、いきなり上山してきた六十一歳である。

九十近くまで頑張って住職を続けた師匠(父親)が急逝して、寺を継がなければならない立場になり、退職と同時にやってきたのだ。

「じいちゃんは、ズルして和尚さんになるんか」

得度とくど(僧侶になる儀式)は、若い頃に済ませていたので、なんとか簡単に修行をすますか、できればショートカットして住職になる方法が無いか、あちこちツテを探したらしいが、その様子をどこかで見ていた幼い孫が一言、「じいちゃんは、ズルして和尚さんになるんか」。

「じいちゃん」はこの一言に発奮して、乗り込んできたのである。

こういう時、道場は容赦しない。入れば年齢は関係ない。が、配慮はする。

彼が彼なりに精一杯やっていれば、若い者に及ばぬところは、見て見ぬふりをするのである。

たとえば、朝の回廊掃除の時、修行僧は全員が一斉に長大な階段を駆け上がり、頂上から我勝ちに猛スピードで拭き降りる。

すると、還暦も越えれば、彼は若者集団に、陸上競技なら二周半くらいの遅れになる。ほとんど全員が拭き終わった頃、ゼーゼー息を切らしながら、よろめくようにして頂上にたどりつき、前に倒れるように両手を伸ばして、懸命に階段を二、三段拭き始める。

途端に、下からずっと見ていた古参和尚が、

「早くしろ!」
「はあい、いっ……(必死の声)」
「よーしっ! そのまま降りてこいっ!」

彼はようやく登った階段を、手すりにつかまりながら、降りてくるのである。