無条件で手を差し伸べる決心

人間は一度信じてしまうと、そこから脱するのは難しい。なぜなら、「信じた自分」を裏切れないからである。それは自分自身の支えを自分で折るに等しく、著しく困難なのである。ましてや組織的な「洗脳」があったのでは、そこから引き戻すことは個人の手に余るだろう。

「あのね、彼女を脱会させるには、よほどの覚悟と手間と時間と精神力、さらに多くの人の協力が無いと、ダメだと思うよ。ぼくも役に立たなくて申し訳ないが、まず君個人でできることじゃないよ」

彼女は手で顔を覆って泣くばかりだった。

「でもね、君が友だちを心配していることを、伝え続けることはできるかもしれない。友だちの信仰は自分には理解できないことを伝えた上で、彼女を批判したり責めたりしないで、ただ心配している気持ちを伝えるんだ。そして、どうしてもまた会いたいと」
「どうやってですか?」
「電話は一応つながり、メールも送信できる状態なら、留守電でも送信ばかりでもよいから、そこに気持ちを伝え続ける。返事がまるで無くても、たとえ無駄でも、彼女がいそうな施設を調べて、手紙を出し続ける。そしていつか、もしも彼女が大きなダメージを負って帰ってきたなら、その時は無条件で必ず手を差し伸べる。そう決心するんだ」

本当に何の役にも立たないアドバイスだったが、仕方がなかった。

「ありがとうございます。話を聞いていただいただけで、少し楽になりました。教わったことをやってみます。他の方法も少しずつ考えていきます」

精神的な孤立がまねく深入り

実は、これほど深刻な例ではないものの、私は過去にいくつか、家族が“宗教”にはまって困っているという相談を受けたことがある(こちらも宗教者なのに、どこが信用されているのかわからないが)。

南 直哉
撮影=新潮社

こういう時、困惑する家族は、その宗教の間違いや異常なところを列挙して、入信した者を説得しようとするが、それは無駄である。組織的に洗脳されているのに、付け焼刃で持ち出す宗教的知識など、ものの数に入らない。

私の見るところ、カルト的な宗教に深入りするタイプは、多くの場合、精神的に孤立している。

ある時、「妻が宗教に引っかかって」、娘まで入信させようとする、仏壇を捨てようとする、と嘆く男性の相談を受けたが、これも結局、この男性が仕事一辺倒で家庭を顧みず、息子が反抗期で、事あるごとに母親を罵倒するという状態が、彼女を宗教に追いやったに違いないと思った。真の問題は彼女のこの孤立なのだ。

「奥さん、寂しかったんじゃないですかね」
「でも仏壇まで……」
「あなた、仏壇、拝んでるんですか?」
「え、いや、それは……」
「拝んでないなら、捨てられてもいいじゃないですか」
「……」
「あなたね、とりあえず、これからは毎日早く帰って、夕飯を奥さんやお子さんと食べなさいよ。そして、ぼくがこれから毎日拝むから、仏壇を捨てないでくれと、奥さんにお願いしなさいよ。あくまで『お願い』ですよ。そっちが先じゃないですかね」