カルト信仰への深入りはなぜ起きるのか。『苦しくて切ないすべての人たちへ』を上梓した禅僧の南直哉さんは「精神的な孤立が当事者の背景にある。意志を奪われた信仰は単なる洗脳である」という――。

※本稿は、南直哉『苦しくて切ないすべての人たちへ』(新潮新書)の一部を再編集したものです。

南 直哉
撮影=新潮社

大学の友人がカルト教団に入信

かなり前のことだが、当時世間を驚愕きょうがくさせる大事件を起こした宗教団体、いわゆるカルト教団に、友人が入信してしまったという若い女性に会ったことがある。

「私がいけないんです、なのに私だけ無事で……」

会って話し始めた途端に、彼女は泣き出してしまった。

「私が入るはずだったんです……」

上京して大学に入り、最初にできた友人が入信したという。ものの好みも家庭環境も似ていて、彼女と出会い、東京でひとり暮らしをする不安がどれほど軽くなったかわからない。そう私に語った。

彼女は、小さいころからファンタジー系の書物が好きで、長じてからは思想・宗教、また流行り始めていたスピリチュアル的な言説にも興味があったという。

ある日たまたま、大学の周辺で、少し風変わりなヨガのグループが参加者を募集していた。

「すごく熱心な勧誘で、しかも言うことが理路整然としていて、なんだか説得力があったんです」

少し覗いてみようかと思った彼女は、それでもいささか気味が悪かったので、一緒に行こうと、その友人を誘ったのだ。そしてふたりで出かけたヨガ・グループの正体が、例のカルト教団だったのである。

声も別人のように冷たかった

ふたりは「初心者体験」的な指導を受け、魅力を感じるところもあったが、どことなく違和感をぬぐえず、参加者リストに連絡先を記入したものの、入会は保留して帰ってきた。

その直後、相談者の女性は留学が決まり、ほどなく渡航。すると友人がひとりで入信してしまったのである。

「そんなことになるとは夢にも思いませんでした。でも、本当でした」
「あの事件が起きる前にも、教団はマスコミで様々に報じられ、一時帰国したときに、私も目にすることがありました。そうしたら、教祖の取り巻きのような信者の一人として、彼女がテレビに映っていたんです!」

ここから事態は急速に悪化する。教団が関係したと見られる事件が次々と明るみに出るにつれ、友人の両親から、彼女とその両親に激しい怒りと非難が浴びせられるようになる。彼女の両親も入信のきっかけを作った娘を叱責する。彼女は日本に居場所がなくなり、再び外国に出た。それでも、しばらくは日本の公安関係者が、彼女をマークし続けたそうである。

「私がいけないんです。でも、どうしたらいいか、わかりません。なんとか脱会させたいけれど、あの後、一度だけ電話で話したきりです。声も別人のように冷たくて、セリフを話しているようでした」
「友だちは今も教団にいるの?」
「たぶん、そうだと思います」
「連絡はつかない?」
「電話もメールも返信ないし」
「でも、電話はかかるし、メールも送れる?」
「そうなんです」

無条件で手を差し伸べる決心

人間は一度信じてしまうと、そこから脱するのは難しい。なぜなら、「信じた自分」を裏切れないからである。それは自分自身の支えを自分で折るに等しく、著しく困難なのである。ましてや組織的な「洗脳」があったのでは、そこから引き戻すことは個人の手に余るだろう。

「あのね、彼女を脱会させるには、よほどの覚悟と手間と時間と精神力、さらに多くの人の協力が無いと、ダメだと思うよ。ぼくも役に立たなくて申し訳ないが、まず君個人でできることじゃないよ」

彼女は手で顔を覆って泣くばかりだった。

「でもね、君が友だちを心配していることを、伝え続けることはできるかもしれない。友だちの信仰は自分には理解できないことを伝えた上で、彼女を批判したり責めたりしないで、ただ心配している気持ちを伝えるんだ。そして、どうしてもまた会いたいと」
「どうやってですか?」
「電話は一応つながり、メールも送信できる状態なら、留守電でも送信ばかりでもよいから、そこに気持ちを伝え続ける。返事がまるで無くても、たとえ無駄でも、彼女がいそうな施設を調べて、手紙を出し続ける。そしていつか、もしも彼女が大きなダメージを負って帰ってきたなら、その時は無条件で必ず手を差し伸べる。そう決心するんだ」

本当に何の役にも立たないアドバイスだったが、仕方がなかった。

「ありがとうございます。話を聞いていただいただけで、少し楽になりました。教わったことをやってみます。他の方法も少しずつ考えていきます」

精神的な孤立がまねく深入り

実は、これほど深刻な例ではないものの、私は過去にいくつか、家族が“宗教”にはまって困っているという相談を受けたことがある(こちらも宗教者なのに、どこが信用されているのかわからないが)。

南 直哉
撮影=新潮社

こういう時、困惑する家族は、その宗教の間違いや異常なところを列挙して、入信した者を説得しようとするが、それは無駄である。組織的に洗脳されているのに、付け焼刃で持ち出す宗教的知識など、ものの数に入らない。

私の見るところ、カルト的な宗教に深入りするタイプは、多くの場合、精神的に孤立している。

ある時、「妻が宗教に引っかかって」、娘まで入信させようとする、仏壇を捨てようとする、と嘆く男性の相談を受けたが、これも結局、この男性が仕事一辺倒で家庭を顧みず、息子が反抗期で、事あるごとに母親を罵倒するという状態が、彼女を宗教に追いやったに違いないと思った。真の問題は彼女のこの孤立なのだ。

「奥さん、寂しかったんじゃないですかね」
「でも仏壇まで……」
「あなた、仏壇、拝んでるんですか?」
「え、いや、それは……」
「拝んでないなら、捨てられてもいいじゃないですか」
「……」
「あなたね、とりあえず、これからは毎日早く帰って、夕飯を奥さんやお子さんと食べなさいよ。そして、ぼくがこれから毎日拝むから、仏壇を捨てないでくれと、奥さんにお願いしなさいよ。あくまで『お願い』ですよ。そっちが先じゃないですかね」

カルト的宗教に共通する特徴

この孤立につけ込むカルト的宗教には、いくつかの共通の特徴がある。

まず、入信した者が今まで付き合っていた人とのつながりを、遮断しようとする。

教団関係者とだけ付き合うように仕向け、他の関係者を遠ざけるか、断たせようとする。

仏教の「出家」も似たところがあるので、初期には批判されたが、その後、両親の許可がない出家は認めないことに方向転換している。

また、修行中には、特に初期、外界との関係を遮断するが、これも期間限定である。基礎訓練には、そのような「余念を交えない」時間が必要なことも確かなのだ。

仏像
撮影=新潮社

二番目に、およそ物事を「善/悪」と「敵/味方」に峻別しゅんべつし、教団が「善」と「味方」を独占しているように、信者に思わせる。

自分たちだけが絶対に正しいことを知っていて、同じ信者以外はすべて悪しき敵だというのだ。

しかし、人が言葉を用いて話をして、それを聞いた他人が内容を理解できることならば、そこに「絶対に正しい」ことなどあり得ない。それが「諸行無常」ということである。

三番目は、自由に脱会させない。実は、これがカルトとまともな宗教を分ける、最も大事なポイントである。

信仰は、当人の意志が尊重されて初めて成り立つ。意志を奪われた信仰は単なる思想の強制=洗脳である。その尊重の原点が、信仰を捨てる自由を無条件で認めることである。

付き合ってもよい宗教者とは

四番目は、異様な金集めをする。入信したからには全財産を吐き出せと迫り、さらに強引な集金を課するのだ。そして、この献金や金集めは「本人の意志」だと言い張る。すでに「本人の意志」は奪われ、教団による洗脳しか残っていないにもかかわらず。

お坊さんがお布施の額を聞かれて、今でも「お志で」とか「お気持ちで」と言うことが多いのは、お布施は「本人の意志」あってのものだと思っているからである。

こう述べてくると、付き合ってもよい宗教者がどういう人か、少しわかってくるだろう。

一、質問を嫌がらない。自分だけ正しいと考える者は、質問を許さず、服従だけを求める。

二、自分はすべてわかっている、絶対的な真理を知っている、などと言わない。ちなみに、本当に「わかっている」人間は、「ここまではわかるが、ここから先はわからない」と明確に言う。

三、自分と自分の属する教団の自慢話をしない。大事なのは教えであり、人や団体ではないのだ。

四、金の話をすぐに持ち出さない。教えと人物がまともなら、いつの時代にも、布施をしたくなる人は出てくるものである。

仏教の善悪はどこで分けるのか

昔、ある老僧に仕えていた時、いたことがある。

南直哉『苦しくて切ないすべての人たちへ』(新潮新書)
南直哉『苦しくて切ないすべての人たちへ』(新潮新書)

「老師、世の中の善悪は、立場によって変わりますが、仏教の善悪は、どこで分けるのですか?」
「難しいことを言う奴だなあ……」

と、渋い表情で老僧は言った。

「ワシにもよくわからんが、まあ、あることをやってみたら、これまでの人とのご縁が深くなり、強くなり、さらに広がって、新しいご縁もできてくるなら、それはやって善いことだと思うな。逆に何かしてみたら、それまでのご縁、親兄弟や友人知人のご縁が薄くなり、貧しくなって、次々と切れてしまうようなら、やめたほうがいいな」

ならば、「悪い信仰」の場合、気が付いたら、周りに同じ信仰の者しかいなくなるだろう。「善い信仰」なら、おそらくその信仰を持たない人さえ感動させるだろう。仏教徒の私がかのマザー・テレサを立派な人だと思うように。