「渋滞を避ける」「遠出をやめる」「週末に家族サービスをしない」

システム思考にならって上からいくなら、一つの解決策は「渋滞に引っかからないようにする」かもしれません。怒鳴ってしまうパターンから離れることです。一つの方法としてはあるかもしれませんが「渋滞に引っかからないようにする」のは状況によりすぎて、あまり現実的な解決策ではなさそうです。

それよりは「週末に遠出をしないようにする」などの構造へのアプローチのほうが現実的かもしれません。そうすれば「怒鳴る」をやめられるかもしれません。では、さらに潜ってみるとどうでしょう。

「週末くらいは家族サービスをしないといけない」というメンタルモデルがあるとしたら、これにはどんなアプローチができるでしょうか。「平日に家族サービスをする」とか「家族サービスをしない」選択肢もあるかもしれません。

しかし平日は疲れ切っていて結局イライラしてしまってダメかもしれないし、家族サービスをしないことが、結局家族との関係をさらに悪くすることもあり得ます。

ではどうすれば一緒に生きていくために役に立つ言葉を作っていけるでしょうか。

車のクラクションを鳴らすイメージ
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※写真はイメージです

「共生の言語化」

こんな時こそ「共生の言語化」が必要になってきます。

「いつも怒鳴るからもう行きたくない。来週の旅行はやめようよ」と子どもから言われた時、どう対応できるでしょうか。孤独になる人はこんな場面で「ああそう、じゃあもう俺は家族サービスなんかしなくていいんだな! それで満足か?」と言うかもしれません。これは軽蔑の言語化です。

あるいは「どうせみんな俺のことが嫌いなんだろう。せっかく旅行に連れていってやっているのに、俺はなんて可哀想なんだ……はあ……」と落ち込んだ様子を見せ、いつもより多くのお酒を飲んで周りに罪悪感を与えて、忖度そんたくさせようとするケースもあるでしょう。これは妄想の言語化とも言えるでしょうか。

子どもたちはそういう様子を見せつけられて「旅行は嫌だ」ともう言えなくなるかもしれません。喜んでいるふりや、楽しんでいるふりをするかもしれません。イライラして怒鳴って最悪の空気になった車の中では何も感じていないふり、悲しくないふり、傷ついていないふりをしないといけないかもしれません。

「もう怒鳴るから来週の旅行はやめようよ」と言われただけで孤独になる反応をしてしまう人が世の中にはたくさんいます。これは、「人と生きるための言語化」を目指さない点で責任の放棄です。その責任を引き受けることを考えてみましょう。