「選んで、決めて、受け入れさせる」
「そうかぁ、男は自由で女子は黒のダサいの強制ってことね。だったら考えたいよなぁ。そういう説明がつかないルールは、いつ、どれだけの選択肢の中から、誰が、どんな話し合いをして、どういう根拠で、『じゃ、そういうことで』と決まったのかって。それと、どうしてそんな不平等な決め事を羊のように大人しく女子たちが受け入れちゃってるのかな、なんてね」
20人くらいいて、「土曜日なのに早朝から隣の隣の県まで連れて来られてマジ眠い」という顔だった高校生たちは、15センチくらい身を乗り出してきた。
僕が問いかけたのは、そんな難しいことじゃない。
あの三段階の話だ。
人に言うことを聞かせるということは、「選んで、決めて、受け入れさせる」という三段階を必ず経ているというあれだ。
私立学校は少子化の時代に生徒集めに気をつかうから、「あんなダサい制服の学校なんか受けたくない」と思われたら具合が悪い。だから一流のデザイナーに頼んで、おしゃれで可愛い制服にしている学校もたくさんある。だから「女子は指定の黒い靴下とする」という決め事をしたときにも、複数の案があっただろう(純白とか、スクールカラーとコーデさせたパステルカラーとか)。女子学生の制服なのだから、女性教員の声も反映させようとして、会議は「校長と副校長と学年主任と女性教諭」で構成されていたかもしれない。
でも最終的には校長の気絶するほど古いセンス「戦前から女学校の生徒は黒と決まっている」に、他のメンバーが全員忖度して押し黙り、「女子靴下は学校指定の黒とする」と決定されて、女子生徒の間では不満タラタラで、心中常にモヤモヤしているけれども、「今のところ大きな声でノーと言う生徒も保護者もいないから受け入れられているはず」と、学校は高をくくっている……のかもしれない。そうじゃないかもしれないが、モヤモヤしてるのに誰もそれを確かめない。
「なんだかなぁと思うがなんとなく受け入れている案件」の理由
そして、こういう、今この瞬間も日本中の学校や企業で起こっている「なんだかなぁと思うがなんとなくそれを受け入れている」案件に共通する理由の多くはこうだろうと思う。
そのルールを誰がどういう理由で決めたのか、どうすればルールを変えられるのかを知らないから。そもそもそれを変えろと言って良いのか悪いのかもぜんぜん知らないし、教わったこともないから。そして誰もそうしないし、「決まっているから」と受け入れる以外に脳内に何も浮かばないから。
つまり、とくに納得も合意もしておらず、自分の立ち振る舞いや行動に対して「こうしてね」と指示されているのに、それが特別変なことだとも、理不尽なことだとも思わないようにされているということだ。このように、人にやるべき立ち振る舞いを示して「言うことを聞かせること」を、政治学では「行為の指定」と硬い言葉で説明する。これは重要概念の一つである「権力(power)」という講義項目だ。