※本稿は、岡田憲治『教室を生きのびる政治学』(晶文社)の一部を再編集したものです。
なぜ女子だけ靴下の色が指定されるのか?
ちょっと前に、僕の大学の附属高校の生徒が、卒業後の進路を決めるための「附属校フェス」に来てくれて、僕は彼・彼女らを相手に大学の模擬授業をやった。教室には高校生だけじゃなくて引率の先生がついてくるのだが、これまでの経験から、ふだんから「言うことを聞かせている」人が同じ空間にいるだけで、対話形式の僕の授業では生徒たちは何かよそゆきの立ち振る舞いとなりがちで、あまり本音を言ってくれない。
入学前の高校生の考えや感覚を知るのは貴重なことなので、できればあまりあちこち気を回してほしくないから、引率の先生に事情を話して「すみませんが授業中は席外してくれますか?」とお願いした。そして「飲み物とか自由に飲んでね」と緊張を解いてやった。のびのびしてほしかったのだ。
目の前にいちおう大学教授がいて、でっかい図体でこっち向いているから、やっぱり最初はみんなとまどっている。「『政治』って言われて、脳内に最初に浮かぶイメージって何?」と僕が聞くと、「……内閣総理大臣とかぁ」なんて、まったくもって立派なことを言う。
でも、そんなの君たちには全然リアルじゃないってことはもうお見通しだから、「そういう立派なこと言わなくていいからさ。立派なことばっかり言って、そんなにわかってないのにわかっていることにする要領ばっかり覚えると、そのうち役所の文書を平気で改ざんするような、まったくもって立派じゃない秀才になるから要注意だぜ」って言うと、みんな笑い出して雰囲気も良くなって、けっこう率直に話すようになる。
「君たちの生活の気配があるところに合わせてちょっと聞いてみるけどさ、一週間の学校生活で、『マジこれないわぁ』ってモヤモヤしてる校則ってあったら教えてくれる? 引率の先生には絶対に言わないからさ」
すると、ひとりの賢そうな女子君が話してくれた。
「あのぉ、制服の話なんですけど、男子は靴下自由なのに女子だけ購買部で売ってる学校指定の黒いやつじゃなきゃだめなんですよぉ。それっておかしくないですか?」
「ちなみに、その黒い靴下は、ダサいわけね? 女子的には」
「はい!(きっぱり)」
「選んで、決めて、受け入れさせる」
「そうかぁ、男は自由で女子は黒のダサいの強制ってことね。だったら考えたいよなぁ。そういう説明がつかないルールは、いつ、どれだけの選択肢の中から、誰が、どんな話し合いをして、どういう根拠で、『じゃ、そういうことで』と決まったのかって。それと、どうしてそんな不平等な決め事を羊のように大人しく女子たちが受け入れちゃってるのかな、なんてね」
20人くらいいて、「土曜日なのに早朝から隣の隣の県まで連れて来られてマジ眠い」という顔だった高校生たちは、15センチくらい身を乗り出してきた。
僕が問いかけたのは、そんな難しいことじゃない。
あの三段階の話だ。
人に言うことを聞かせるということは、「選んで、決めて、受け入れさせる」という三段階を必ず経ているというあれだ。
私立学校は少子化の時代に生徒集めに気をつかうから、「あんなダサい制服の学校なんか受けたくない」と思われたら具合が悪い。だから一流のデザイナーに頼んで、おしゃれで可愛い制服にしている学校もたくさんある。だから「女子は指定の黒い靴下とする」という決め事をしたときにも、複数の案があっただろう(純白とか、スクールカラーとコーデさせたパステルカラーとか)。女子学生の制服なのだから、女性教員の声も反映させようとして、会議は「校長と副校長と学年主任と女性教諭」で構成されていたかもしれない。
でも最終的には校長の気絶するほど古いセンス「戦前から女学校の生徒は黒と決まっている」に、他のメンバーが全員忖度して押し黙り、「女子靴下は学校指定の黒とする」と決定されて、女子生徒の間では不満タラタラで、心中常にモヤモヤしているけれども、「今のところ大きな声でノーと言う生徒も保護者もいないから受け入れられているはず」と、学校は高をくくっている……のかもしれない。そうじゃないかもしれないが、モヤモヤしてるのに誰もそれを確かめない。
「なんだかなぁと思うがなんとなく受け入れている案件」の理由
そして、こういう、今この瞬間も日本中の学校や企業で起こっている「なんだかなぁと思うがなんとなくそれを受け入れている」案件に共通する理由の多くはこうだろうと思う。
そのルールを誰がどういう理由で決めたのか、どうすればルールを変えられるのかを知らないから。そもそもそれを変えろと言って良いのか悪いのかもぜんぜん知らないし、教わったこともないから。そして誰もそうしないし、「決まっているから」と受け入れる以外に脳内に何も浮かばないから。
つまり、とくに納得も合意もしておらず、自分の立ち振る舞いや行動に対して「こうしてね」と指示されているのに、それが特別変なことだとも、理不尽なことだとも思わないようにされているということだ。このように、人にやるべき立ち振る舞いを示して「言うことを聞かせること」を、政治学では「行為の指定」と硬い言葉で説明する。これは重要概念の一つである「権力(power)」という講義項目だ。
とっくに政治に巻き込まれていた
政治学のよいところは、この「政治とは、権力を通じて、誰かの利益となるように他者の行動をコントロールすること」という、いささかキナ臭い話をも対象にしていることだ。
モヤモヤするなら確かめればいいじゃないかと、附属校の生徒たちに言った。
君たちは、自分には政治なんて関係ないと思っていたかもしれないけど(もちろん、あの官僚の作文を棒読みする大臣の顔が浮かぶのは無理もないけど)、教室で起こっていること、あるいは教室には知らされていないけれど、校長室で決まっていること、関係あるのに「決まっていることだから」とされていることなんかを考えれば、もうとっくに政治に巻き込まれているし、その意味で政治は国会だけじゃなくて、君の学校でも教室でも起こっていることでしょ、と。
校則の中身よりも大事なこと
校則をめぐる話で大事なのは「どういう校則がいいか?」という問題だけじゃなくて、「そもそも、そんな校則を、どんな価値観で選んで、誰がどういう話し合いと理由づけをして決めたのか、そして、どうやってそれを受け入れさせたのか」という、校則が存在する「前」と、存在「し続けている」部分なのだ。
校則の中身については、政治学者が決めることじゃない。それは「それに影響を受ける、今を生きる者(君たち)が」決めることだからだ。「校則をめぐる政治」という言い方がこうして浮上してくるし、意味もじわりじわりと出てくる。
ただ、ここでいう政治の話に当てはまらないことも起こる(めったにないけど)。それは、「どうして女子だけダサい黒靴下?」と問うと、「明け方に、突然お告げがあって、それを讃える儀式をしたら東の空に巫女が降りてきて、その背中に『黒』という文字が見えたんです!」と返されて、一同「ははぁー!」と平伏した、みたいな話だ。
これでは選択肢が他にあるのかないのかも、誰が決めたのかも(巫女だから、結局人間を超えた者で、要は誰かよくわからない)不明だ。これは「人間のやった」政治ではなく、「神とか自然がもたらす」呪術(オマジナイ)の話だ。政治学風に言えば、これは近代以前の「絶対神摂理による秩序付与」なんて呼べるかもしれない。つまり、世界の秩序は人間ではなくて人間を超える存在によって創られるという枠組の政治「神」学だ。
それにしてもダサい黒靴下の問題は切実だ。ティーンエイジャーにとって、着ているものや髪型や持ち物がダサいということは致命的なことだろう。だから、この決め事は、「上が(校長が)言っているから」では済まされない、もしかしたら日本の消費税率をどうするのかという問題よりも深刻になりうる。中高生にとっては。
ひと声ものを申す権利
政治学では、決め事と自分の関係について、次のような前提で人間のカタマリを運営することを「民主政治(デモクラシー)」と呼んでいる。
人は、自分の生活や人生に直接・間接に影響を与えるような決め事がなされる時には、それに対して直接・間接にひと声ものを申す権利を持っている。
裏から言えば、「人は、自分の生活や人生に影響を与えるような決め事が、自分の知らないところでなされたときには、その決め事には従わないという態度をとっていい」ということだ。アメリカの偉大なる、これまた僕の心の師匠の政治学者ロバート・ダールという人はそう言っている。
やはり決め事は、自分たちでやらないと、「人に言うことを聞かせられる」感が残ってしまう。注意しないとあたかも「自分たちは『促しただけ』で、校則の廃止については、教員・生徒・保護者が集まって相談して、みんなで決めたことですから」というタテマエだけがアリバイにされて、実際は「役所が上から通知を出す」みたいなやり方をされてしまうことだってあるのだ。