30年前の日本でもモネの頃と同様の手術が行われていた
つまり、当時の日本では、モネのころと同じような手術方法であり、手術後に分厚い凸レンズのメガネをかけて、視力が0.1以上出れば成功だとされていたのです。ほとんどの施設では眼内レンズなどはなく、凸レンズのメガネを術後に装用したので、見え方は、ものが拡大され、色も異なって見えたのです。
つまりモネが嘆いたのと同じように、色も大きさも違って見えてしまい、視力も悪かったのです。ですから、手術時期も、ほぼ失明近くになってから行なっており、結果も悪く、モネの時代の眼科手術を彷彿とさせるものだったのです。
モネは白内障が進行した1918年の手紙で、「もはや、色も分からず、赤も土色にしか見えない。桃色や中間色は全く見えない。青や紫や濃い緑は、黒く見える」という苦悩を書き綴っています。モネの晩年の絵画の変化が白内障の影響による変化だったことを、モネ本人が述べているのです。
モネはこのころには、評価する人やファンも多く人気作家になっていました。さらに1920年には、友人でもあったフランス首相のクレマンソーが、国家プロジェクトとして、オランジュリー美術館をモネの睡蓮の大作で飾ることを決めました。
そのことがモネに伝えられると、モネは1922年の手紙で、「もはや自分は失明状態である」として、いったんはクレマンソーの申し出を断っているのです。
しかし、クレマンソーの励ましもあり、絵を描けるようにと、1923年にパリの眼科医クーテラ医師から、右目だけの白内障手術を受けることになったのです。
旧式の白内障手術を受け「もはや画家の目は失われた」
当時の白内障手術は旧式の嚢外法でした。まず、目の水晶体を囲むカプセルをグレーフェ刀という長いメスで切り裂き、白内障(白濁した水晶体)を洗い流します。しばらくして残った白内障の残りを洗ったり、また線維化したカプセルを切ったりします。
モネもこのような方法で、半年で3回も手術を受けたのです。結果は、凸レンズをつけた右目の矯正視力は0.4ほど出ました。しかし、人工水晶体(眼内レンズ)などはない昔なので、術後に分厚い凸レンズメガネをかける必要があったのです。
そのせいもあって、手術後のモネの目では「ものが大きく拡大し、ゆがんで見えて、色彩の感覚も全く違い、もはや画家の目は失われた」と、モネは嘆き落胆したのです。当時の眼科外科医の技術ではやむを得なかったのです。
ただし、現代の、少なくとも私の手術では、全く苦痛もなく、すぐに1.0以上の視力を得られます。私の手術患者は、多くが多焦点レンズ移植を選ぶので、裸眼で、近く、中間、遠方と途切れなく見えます。