9代将軍家重や田沼意次の描き方にも違和感アリ

家治の父で9代将軍・徳川家重(高橋克典)が粗暴で好色な将軍で、田沼意次に暗殺され、家治が将軍を継いだ形になっているが、いろいろと違う。よく知られているように、徳川家重には言語障害があった。脳性まひだったという説もある。言語が不明瞭なだけでアタマは良かったらしい。家重・家治父子は将棋を好んだ。バカではできない趣味である。

家重が何を言っているのか、唯一聞き取れたのは側近の大岡忠光――大岡越前(忠相ただすけ)の親戚――である。宝暦10年(1760)4月26日に大岡が死去。その年の4月1日に家重は引退を宣言する。おそらく、大岡はそれ以前から出仕できなかったのだろう。家重は世間と意思疎通ができなくなったために引退を余儀なくされ、その翌年に死去している。

「田沼意次像」18世紀
「田沼意次像」18世紀(画像=牧之原市史料館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

家治は冷たい男ではなく謙虚で、父の家臣にも丁重だった

つまり、ドラマのように家重が死んだから家治が将軍になったのではなく、家治が将軍になった後に家重が死んだのだ。家治は24歳で将軍に就任した。まだまだ先のことと考えていたらしい。まず、老中の松平武元たけちか(橋本じゅん)を呼び寄せ、次のように語ったという。

「私は年若くして、いまだ国政のことに習熟していない。不幸にして父が多病なので、やむをえず将軍の座を譲られ、深く恐れて手足の置き所もない気持ちである。そちは祖父(吉宗)の時代から政務にあずかり、祖父の指導も受け、長年老中職に励んでいるから、これからは、何事によらず気づいたことはすべて報告し、私にもし過ちがあった時は、きびしく諫めてくれ。私もまた素直に諌言かんげんを聞こう」
(山本博文『お殿様たちの出世』)。

ドラマ「大奥」での家治は、こんなに謙虚な人物には見えない。

ちなみに、松平武元は水戸徳川家の分家に生まれ、越智おち松平家の養子となった。越智松平家の家祖は、6代将軍・徳川家宣いえのぶの実弟の松平清武きよたけである(清武がはじめ越智家の養子になったため、越智松平家と呼ばれ、子孫が幕末に浜田藩主を務めていたから、浜田松平家とも呼ばれる)。

大名には徳川家の親族にあたる親藩、関ヶ原の合戦以前の家臣である譜代、それ以降に徳川家に臣従した外様大名があり、通常であれば、老中は譜代大名から選ばれ、親藩大名である松平武元は就任しない。しかし、武元の人となりを高く評価した吉宗は、側に置いて政務を指導した。だから、老中に選ばれ、家治にも一目置かれていたのだ。

そんな武元は有力大名であり、その在任中は意次は静かにしていたという説がある。それがどこで軌道修正されるのか、それともこのままされないのだろうか。そういった意味でもドラマ「大奥」からはまだまだ目が離せない。

菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者

1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。