せいは息子を溺愛していたが、笠置が妊娠してからは軟化

また息子を溺愛する母親としてみれば嫁が誰であろうと、息子の勝手な恋愛結婚をすんなり許すとは思えない。このことは当時もマスコミの格好のネタになったようで、後々まで「ブギの女王と吉本興業御曹司の許されぬ結婚」と喧伝された。だが実際は、せいがかたくなに反対していたわけではなく、せいの心も徐々に軟化し、とくに笠置が頴右の子を身ごもってからは二人の仲は周囲も公認だった。

せいの実弟で吉本興業常務・東京支社長の林弘高が笠置のもとへ“姉の使者”となり、ことは円満な方向へ進んでいたようだ。せいにとっては孫の誕生である。服部良一も自伝で「事態は好転していた」と証言している。笠置自身も、出産後は頴右との家庭を持つことを夢見て芸能界から引退することを決めていた。日劇「ジャズカルメン」は笠置にとって最後の舞台、引退公演になるはずだった。だからもしも頴右が生きていれば、“ブギの女王・笠置シヅ子”は誕生しなかったことになる。

頴右の死が引退するつもりだった笠置を「ブギの女王」にした

しかし皮肉なことに、せいは孫の誕生の直前に突如、一人息子を失った。一代で吉本王国を築いた“女傑”“女太閤”も、この事実には打ちのめされた。一方、最愛の婚約者を失った笠置はいとし子が授かり、悲しみの中で再び舞台に立つことを決心する。

コロムビア音得盤シリーズ 笠置シヅ子「アイレ可愛や」ⓅNippon Columbia Co., Ltd./NIPPONOPHONE

一躍スターとなった笠置は多忙なスケジュールに追われるが、幼いヱイ子をつれて大阪で入院中のせいのもとに病気見舞いに訪れている。笠置が初めて吉本せいに会ったのは、頴右が亡くなった4カ月後の9月、大阪の梅田劇場に出演したときだった。西宮の甲子園に近い吉本宅へまだ生まれたばかりのヱイ子をつれて、せいの病気見舞いに行った。翌年の頴右の一周忌にも訪れ、頴右の墓のある服部墓地にお参りしている。

だが1950年3月14日、吉本せいは回復することなく息子のもとへ逝った。享年60歳。吉本興業はせいの実弟・林正之助が社長になり、吉本家から林家に実権が移る。

砂古口 早苗(さこぐち・さなえ)
ノンフィクション作家

1949年、香川県生まれ。新聞や雑誌にルポやエッセイを寄稿。明治・大正期のジャーナリスト、宮武外骨の研究者でもある。著書に『外骨みたいに生きてみたい 反骨にして楽天なり』(現代書館)など