小柄で美女ではない笠置シヅ子がスターになれたのはなぜか。シヅ子についての本を書いた青山誠さんは「シヅ子は東京で作曲家の服部良一と出会い、素質が開花した。服部は最初、シヅ子の地味な素顔にがっかりしたが、彼女の低い声と迫力あるパフォーマンスに可能性を感じ、スイング・ジャズにはぴったりだとシヅ子に賭けた」という――。

※本稿は、青山誠『笠置シヅ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記』(角川文庫)の一部を再編集したものです。

戦争景気に沸く東京が笠置シヅ子の新天地になった

日中戦争が始まる4日前の昭和12年(1937)7月3日、松竹は浅草国際劇場をオープンさせている。約5000人を収容する当時は日本最大の劇場で、ここが少女歌劇の本拠としても使用されることになった。

松竹少女歌劇団による「秋のおどり」「祖国」(1937年9月上演)の看板が掲げられた国際劇場(写真=柏書房『写真集 失われた帝都 東京 大正・昭和の街と住い』より/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
松竹少女歌劇団による「秋のおどり」「祖国」(1937年9月上演)の看板が掲げられた国際劇場(写真=柏書房『写真集 失われた帝都 東京 大正・昭和の街と住い』より/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

同年10月には大阪松竹少女歌劇団が上京してこの国際劇場で「国際大阪踊り」のレビューを公演した。シヅ子もこれに出演し、そのパフォーマンスが東京の関係者たちの目にとまり彼女の引き抜きに動き始めたのだという。

松竹は東京に多くの劇場を所有していた。これに国際劇場が加わったことで、出演者やスタッフの陣容を強化する必要に迫られている。また、少女歌劇につづく新しいレビューを立ち上げることも決まっていた。

シヅ子が上京した年には、少女歌劇のスターたちに男性出演者をくわえた松竹楽劇団(SGD)が旗揚げされる。彼女もこの楽劇団のメンバーに加えられることになった。丸の内界隈の大きな映画館では、上映の合間にアトラクションとして演劇やショーを開催するのが流行っている。SGDも松竹洋画系映画館で催すショーを目的につくられたもので、男女の共演による本格的なミュージカルをめざしていた。

最初にジャズプレーヤー・紙恭輔の指導を受ける

劇団の音楽を担当する総指揮者として招聘しょうへいされた紙恭輔かみきょうすけは、日本のジャズプレーヤーの草分け的人物。松竹は少女歌劇が得意としてきた情熱的で激しいダンスにくわえて、ジャズの演奏や歌を存分に聴かせることを新劇団のウリにしようとした。洋画系のハイカラな映画館で催されるショーなだけに、欧米文化の雰囲気が濃厚なジャズとの相性がよいと踏んでいたのだろう。

新天地で自分の居場所を確固たるものにするため、シヅ子はジャズの歌唱法を本格的に学ぶことにした。総指揮者の紙を追いかけまわし、背後霊のように張りついて離れない。彼の言葉を聞き漏らすことなく、求めているものを知ろうとする。また、練習が終わっても相手の都合などおかまいなしに、根掘り葉掘りしつこく質問してくる。

紙も辟易へきえきしていたようだった。あからさまで貪欲どんよくな姿勢に引いてしまう劇団仲間もいたが、気にしない。空気を読むとか忖度そんたくするとか、芸の修練には不要なものだと割り切っている。その考えは研修生の頃から変わらない。