妻の寿衛子が死んだのは貧乏で治療ができなかったからか

この奥さんは名を寿といったが、昭和3年(1928)に病原不明の病気となり、有効な治療もできないままに、54歳で亡くなった。ここで「病原不明」といったのは、牧野の自叙伝による表現である。牧野の娘、岩佐玉代の「わが母 寿衛子を語る」(『植物と自然』1981臨時増刊)によれば、「入院しても、お金が続かないために徹底的な治療ができなかったのです。最後は肉腫が原因で……」という表現になっている。その奥さんが亡くなる前の年、牧野は仙台で新種のササを発見したので、それに「スエコザサ」と名づけて、奥さんへの感謝の念を表わし記念とした。

牧野は経済的には苦しいなかで、本を買うことや研究には金を惜しまなかった。牧野が植物学の研究を志した若いころ、自分の決意を示した文章に「しゃべんいったつ」がある(『植物分類研究』下巻)。赭鞭とは「赤いむち」のことで、昔の中国で本草学の祖といわれた神農が、薬草を調べるのに赤いむちを使って草を打ったという故事にちなんで、本草学のことを赭鞭ともいう。牧野が若いころは、本草学=植学=植物学の用語が混在していたこともあり、植物学に志す決意を「赭鞭一撻」(赭鞭を励ます)に表わしたのである。

本代を惜しまず知識に金をかけて植物学者を志した牧野

それは、「忍耐を要す」「精密を要す」「草木の博覧を要す」「書籍の博覧を要す」「植学に関係する学科は皆学ぶを要す」「洋書を講ずるを要す」「りんざいしゃは植学者たるを得ず」など、15項目にまとめられている。

このうち「書籍の博覧を要す」では、植物に関係する書籍は「ことごとしょうりょうえつどくを要す」ので、本をたくさん買う必要があり、植物学を学ぼうと思う者は「財を吝む者の能く為す所にあらざるなり」としている。また「植学に関係する学科は皆学ぶを要す」では、およそ植物学に関係する分野は、物理学、化学、動物学、地理学、天文学、解剖学、農学、絵画学、数学、文学などがあるので、そのすべてを学ばなければならないとしている。

「洋書を講ずるを要す」では、外国の書籍は「詳細緻密にして、遠く和漢の書物にぜつしょうしようすればなり」と、和漢の書籍より洋書の方がはるかに優れているので、これを学ばなければならないが、やがては日本の植物学も進歩し立派な書籍が出るだろうから、これは「永久百世の論とするに足らざるなり」との見通しを示している。そしてこれらを一括するように、「財を投ぜざれば、書籍、器械等一切求むる所なし、故に曰く財をおしむ者は植学者たるを得ず」と決意している。