牧野に先んじられた矢田部は東大での研究を禁じる
ところが東大植物学教室の主任である矢田部教授にしてみれば、このような植物誌を編纂するのは大学の役割だと思っているのに、外部からきた素人の牧野が、大学の資料を利用して『日本植物志図篇』をつくり始めたのだからおもしろくない。第6集が出たところで矢田部は牧野に対して、「私も同じような植物誌を編纂する予定なので、今後は大学の植物標本や書物を見るのは遠慮してほしい」と告げた。
牧野は「植物学の研究者が少ないときに研究仲間を排斥すれば学問の進歩が遅れる、従 来どおり書物や標本を見せてほしい」と懇願したが、矢田部の考えは変わらなかった。
落胆した牧野はロシアの植物学者を頼ろうとするが……
これで落胆した牧野は、ロシアへ行くことを企てた。牧野は以前からロシアで東アジアの植物を研究しているC ・マキシモウィッチと文通し、指導を受けていたので、ロシアへ渡ってマキシモウィッチを助けながら、日本植物誌を完成させようと考えたのである。マキシモウィッチは『日本植物志図篇』を高く評価してくれていた。しかし計画が実現する直前にマキシモウィッチが急死したので、それも立ち消えになってしまった。
ちなみにマルバマンネングサは、明治21年(1888)に牧野がマキシモウィッチに標本を送り、Sedum makinoi Maxim.という学名をつけてもらったものであるが、牧野は「マキノイ」と命名してもらったことに「鬼の首でもとったように大喜びした」と、友人への手紙に綴っている。また日本各地の樹林に生えるアケボノシュスランの学名は Goodyera maximowicziana Makinoとなっており、牧野がマキシモウィッチを記念して命名したものである。
矢田部から研究室の出入りを禁止された牧野は、池野成一郎(後にソテツの精子を発見したことで有名)の好意により、農科大学(東大農学部)の研究室に居候をして研究を続けた。しかし『日本植物志図篇』は第11集まで出たところで中断してしまった。
東大教授の矢田部と無冠の牧野は、相撲でいえば「横綱と褌かつぎ」の取り組みのようなものだと牧野自身がいっているが、牧野は「実力では教授に負けないぞ」と意地になって矢田部への対抗意識を燃やしたのである。