女性活躍が進む要因
日本と比べて欧米は、早くから開明的で女性活躍が進んでいたと思われがちですが、それは、半分まちがいです。以前の記事で書いた通り、欧米でも男尊女卑や性別役割分担は、かなり根強く残っていました。彼らはいつの時代でも、日本より少し先を歩いているだけのことであり、昔から開明的であったわけではありません。
ただ、昭和期、とりわけ戦後にその差は著しく開いたことは確かです。
日・欧米とも同じように恋愛結婚をして、核家族で、標準家庭を範とするロマンティックラブ路線を歩んだにもかかわらず、なぜ、日・欧米では戦後に男女平等化で差が生まれたのでしょう。
その答えを説明するために、まず、「社会を変化させるトリガー」について、説明しておきます。
社会に浸透していたテーゼが崩れ始めるのは、えてして、産業や経済、人口構成など社会の主たる構成要因に、何らかの変調が起きたときです。こうした背景があって、そこに啓蒙運動などが加わると、社会は大きく変わっていく。
日本が高度成長を基に男は外で働き女は家庭に入る「昭和型」を強める中で、欧米各国には変わらねばならない理由が度々発生していました。そこで、差が大きく開いたわけです。
いくら声高に差別撤廃を主張しても、社会要因が熟さない中ではなかなか変化は起きないのです。
そして、今、なぜ日本は急激に変化しつつあるのか。その理由も、「社会要因」が起点となっています。まさに、機は熟した! ということでしょう。
戦中だけの「束の間の女性進出」
まず、欧米諸国で一足先に、女性の社会進出が始まった理由を見ていきます。
女性の社会進出は、20世紀以前にも一時的に何度か進んだことがありました。それは「戦争」による悪戯です。戦中は壮年期の男性が戦地に駆り出されることになります。当然、社会全体では労働力不足に陥る。そこで、銃後の女性たちが、男性に成り代わり働くことになりました。
最初のうちは、職場に残る年輩男性からお手並み拝見程度に見られていた女性たちが、しばらくすると、立派に仕事をこなすようになります。長い戦争ともなれば、「女には無理」と思われていた重労働や建設などにまで、女性が進出を果たしました。それでも男性たちは、女性労働のことを「ダイリューション(水割り)」などと揶揄して、自分らよりも技能も生産性も低いと留飲を下げていたようです。
ただ、こうした女性の社会進出も、戦争が終わると萎んでいきます。復員した男性たちが職場に復帰し、また何事もなかったように彼らが職場を牛耳るという揺り戻しが、幾度も起きていました。
第1次世界大戦の頃まで戦争のたびに起きた女性の「束の間の社会進出」が、第2次世界大戦後には、ちょっと様相が変化します。最初にそれが現れたのが北欧諸国でした。