にじみ出ていた「たいしたことないんだろう」感
漫画シリーズが貼られていた2010年代は、世間に「痴漢に遭うってたいしたことじゃないんだろう」という雰囲気がただよいまくっていました。
「痴漢の被害の深刻さについて、社会全体で認知を広げるような啓発が必要である」と被害者の人たちが声を上げても、「痴漢冤罪に巻き込まれるほうが大変だ」という認知の方が浸透していて、被害者の声が押しやられ、問題が矮小化されるという事態が長らく続いていました。
テレビドラマでも、痴漢をテーマにしたストーリーは、被害者女性が実は嘘をついていたとか、「痴漢冤罪でした」というオチになっているものがほとんどでした。
恋愛ドラマの第一話の1番最初のシーンで主人公が痴漢と間違えた男と入社先の会社で再会して気まずい思いをする、という「お話の始まりのツカミ」でも痴漢冤罪はライトなテイストで長年にわたり非常によく使われていました。
そういう情報が表立って蔓延している世の中で、電車の乗車中に「痴漢です」と声を上げられても、多くの人は「本当なのか?」「関わりたくない」と思ってしまっても仕方がない。助ける行為に消極的になるのは当たり前です。
私は漫画シリーズを見るたび、その社会に漂う「痴漢に遭うというのは、そこまでたいしたことないんだろう」感がより強調されているような気がしていました。
被害者の表情に表れていたもの
特に紫色でデザインされた2017年版のポスターの中の「痴漢です」と訴えている女性が、目の下に入っている斜線によって、決意の中にある少しの恥じらいみたいな表情に見えることに大きな違和感を持っていました。
中高生時代に頻繁に被害に遭っていた当事者としては、痴漢加害をされたりそれを目撃したりした時というのは、恐怖と嫌悪と怒りによる顔面蒼白のほうが近いからです。この頬の斜線に、当時の痴漢犯罪に対して社会が持つイメージが凝縮されていたと言ってもいいでしょう。
この漫画シリーズを見ていて感じるのは「わが社の鉄道を使う乗客に性暴力・性犯罪をすることは断じて許さない」という鉄道会社からの強い意志よりも、「(ポスターを)作ってる人たち毎回楽しそうだな」ということでした。
もし、テレビドラマで「振り込め詐欺」がこのように描かれていたらどうでしょうか。
「おばあちゃんが振り込め詐欺に引っかかった」というドラマの出だしで、実はおばあちゃんが嘘をついていた、おじいちゃんが勘違いをしていた、振り込め詐欺をしている人はそもそもいなかった、というオチが頻繁にドラマで流れていたら。違和感を持つ人は多いだろうと思います。
だけど痴漢犯罪の描写になると、どこか笑いをもって処理されたり、「痴漢に間違われる男」がコミカルに描かれたりするのが結構当たり前でした。