子育ては母だけの役割ではない
晶子は「母性偏重を排す」の中で次のように述べています。
「人間は単性生殖を為し得ない。男は常に種族の存続に女と協力して居る。この場合に唯だ男と女とは状態が異なるだけである。男は産をしない、飲ますべき乳を持たないと云ふ形式の方面ばかりを見て、男は種族の存続を履行し得ず、女のみが其れに特命されて居ると断ずるのは浅い。
トルストイ翁もケイ女史も何故か特に母性ばかりを子供の為めに尊重せられるけれど、子供を育て且つ教へるには父性の愛もまた母性の愛と同じ程度に必要である。殊に現在のやうにまだ無智な母の多い時代には出来るだけ父性の協力が無いと子供の受ける損害は多大である。母親だけが子供を育てることは良人が没したとか、夫婦が別居しているとか云ふやむを得ざる事情の外は許し難いことである」(「母性偏重を排す」 1916/2)
何も子育ては母だけの役割ではなく、あくまでも男女平等という主張は昨今、ようやく「イクメン支援」などで日本にも定着しつつある。100年以上前にそれを唱えた晶子はまさに開明的といえるでしょう。
エレン・ケイ「女の生活の中心要素は母となること」
この論点を深める上で、二人が対照的な受け止め方をした、当時のスウェーデンの女性思想家エレン・ケイの発言を書いておきます。
「女の生活の中心要素は母となることである。女が男と共にする労働を女自身の天賦の制限を越えた権利の濫用だとして排斥すべし」
いかがでしょう。「結婚と出産、子育てこそ女の喜び」といった典型的な性別役割分担観を感じずにはいられない言葉ですね。これに対して、晶子は猛反発し、以下のように反駁しています。
「私は母たることを拒みもしなければ悔いもしない、寧ろ私が母としての私をも実現し得たことは其相応の満足を実感して居る…(中略)女が世の中に生きて行くのに、なぜ母となることばかりを中心要素とせねばならないか。人間の万事は男も女も人間として平等に履行することが出来る」(「母性偏重を排す」 1916年2月より)
劣悪な環境で働くのなら、家に入った方がいいという主張
一方、らいてうは、エレン・ケイに心酔し、その翻訳までしているため、晶子のエレン・ケイ批判を甘受することができません。
エレン・ケイが性別役割分担的に映る考えを発した背景には、当時の社会状況があります。女性は、不平等で劣悪な環境下で労働を押し付けられていました。だから、女性は危険な労働に出るよりも、家事育児優先で、社会はその保障をすべき、と説いたのです。こうした女性の育児労働により、子どもは国家の担い手へと育ち、社会を支えていく。だからこそ、国がその手当を払うべきと論を進めます。
対して晶子は、劣悪な女性の労働条件の改善、そして、男性の扶養に頼らない女性の自立を希求すべきと対論を張りました。らいてうは晶子の主張に対し、女工の悲劇的な労働状況を挙げて再反論するという形で、両者のバトルは熱を帯びていきます。