「家事・育児・労働を男女平等に」と唱えた与謝野晶子

対して晶子は、「生物学的に言えば、女性にしかできないのは妊娠と出産のみであり、育児や家事は男女ともにできる。労働も男女平等にできる」という考え方です。今日的には当たり前であるこの「女権論」は、当時は理想的に過ぎると、多くの人が一歩引いた見方をしていました。ここが社会問題を考える時の難しいところです。

当時は、労働が男性に牛耳られていました。そうした中では、女性は劣悪な条件でしか職に就けませんでした。そこで、当代の文化人は、危険で低待遇な仕事に女性が就くよりも、家庭に入ることを勧めたのです。

与謝野晶子(1878~1942)
与謝野晶子(1878~1942)(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

その時代・その社会の営みとは、全てが累々と連関しているものであり、そうした系の中でしか物事は考えられません。その系を外れた提言は、「無理筋」であり、現実味がありません。ゆえに、理想論と揶揄されてしまうことになります。

ところが、時代が進み、社会条件が変わると、理想論こそ常識になり、過去の常識は唾棄すべき暴論に堕します。

この理想×常識のダイナミズムを、らいてうと晶子の論争から読み取り、社会を見る一つの糧にしてほしいところです。

西欧でも日本でも「妻は夫に従属するもの」という価値観

明治維新によって士農工商という身分制が改まり、四民平等が実現、国民には職業選択の自由が認められましたが、その恩恵を被ったのは主に男性でした。明治の初期は女性の職場は狭い範囲に限定されており、農業・自営商などの旧来的な職業以外では、新しい職種といえば、教師や看護師、製糸工場などにおける女工くらいのものだったのです。

しかも女性の場合、結婚後の地位が低く、1896(明治29)年に制定された民法第14条には「妻の無能力」が規定されていました。結婚前は自由であっても、結婚後、働くには夫の許可が必要。ただ、実はこの点について、日本が世界から見て大きく遅れていたとは言えないことを、付言しておきます。

こうした「妻は夫に従属する」という考え方が、近代のシビリアンロー(市民法)下でも成り立ったのは、元来、職業機会の少ない女性、とりわけ育児期の女性は、夫に守られているべきであり、その見返りとして、夫には妻に対する扶養義務が課される。それで男女は釣り合うという考え方です。簡単にいえば、「仕事のないお前を食わせてやってるのだから、文句は言うな」ということでしょう。

西欧でもこんな感じだったのです。この背景が見えると、次段落での平塚らいてうと与謝野晶子の「母権論争」、そしてエレン・ケイの男女役割分担論も読み解くことができるはずです。