譜代家臣の土屋昌恒が勝頼のこれまでの判断を非難した
いっぽう、織田信長の命を受けた滝川一益は、勝頼らが駒飼の山中に引き籠もったとの情報を摑み、付近を探索した結果、遂に彼らの居場所を発見した。敵影を発見したとの知らせが、勝頼に報じられると、跡部勝資は動揺し、勝頼に小山田の変心で郡内に入れない以上は、この地域の地下人を計策して天目山に入り、世の中の情勢を伺うべきだと言上した。これに怒った土屋昌恒は、次のように主張した。
「跡部の言い分は未練です。そのような無分別な意見を言いつのってきた結果が、このような有様になり、御家滅亡に追い込まれることになったのです。よくよくお考えいただきたい、小山田が敵となり、天目山の地下人にも叛かれた不運のもとでは、もはやいかなる鉄城、鉄山に立てこもろうとも、運が開けるとは思えません。
侍は死ぬべき場所で死ななければ、必ず恥を見るといわれているのは、よくご存じでしょう。源氏の祖八幡太郎義家も、侍たる者は死ぬべきところを知ることが肝要だと仰っておられたはずで、今こそそれを思い起こすべきです。たとえ小勢であっても、新府城に踏みとどまり、敵が寄せてきたなら命を限りに戦い、矢尽き弓が折れたら一門がそこで自刃してこそ、代々の武田の名を顕し、信玄以来の武勇を残せたのに、小山田のような恥知らずを信じてここまで逃れて来て、卑夫の鏃を受け、一門の屍を山野にさらすことになるとは、後代までの恥辱とは思いませんか」
妻の兄を裏切ったことで家臣にも信用されなくなった
「戦の勝ち負けは、時の運によるものなので、戦って敗北することは恥辱ではありません。ただ戦うべきところで戦わず、死ぬべきところで死なぬことは、弓矢の家の瑕瑾というべきです。ある書物に、進むべきを見て進まざるを臆将といい、退くべきを見て退かざるを闇将という。だから合戦の進退は、つまるところ分別工夫によるものと心得ます。
跡部勝資の分別は、軽率であり、ここに及んで今更言っても仕方ないが、もはや胸臆を包み隠さず申し上げれば、先年御館の乱(越後で上杉謙信急死後に起こった跡目争い)で上杉景勝と景虎が争った時、(北条夫人の兄である)景虎に対し不義の行動をとったが故に、武田氏は天下に悪名を乗せ、諸人の嘲笑を買ったのです。甲相同盟(武田と北条の同盟)が破綻し、それまでの重縁が切れて怨敵となり、その結果が今の状況です。小山田を始め、多くの恩顧の人々が武田家を見放したのも、ここから始まっているのです。敵は余所にはいないものです」。
土屋昌恒は、一度は怒り、あとは落涙しながら主張すると、跡部は赤面し平伏したままー言も抗弁できなかったという(『甲乱記』)。